わたしは言っておく。 目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。(ヨハネによる福音書4章35節)
人目を避けて水を汲みに来た婦人は、主イエスによってその渇いた魂を癒(いや)された時、水がめを放り出して町に走った 。人々に主イエスのことを話すためである。彼女の話を聞いた人々が町から主イエスのもとにやって来た。その様子を見て、主は弟子たちに今日の聖句を語った。
「目を上げて」とは、目を天に向けることである。主イエスは、「信仰の目をもって魂の世界を見なさい、そうすれば色づいて刈り入れを待っている魂の多いことが分かる」と言う。周囲の人々は 一見満ち足りていて、福音を必要としないように見える。しかし、信仰の目で見るならば、人々の魂は渇いていて救いを待っているというのである。人間にとって衣食住は大切であるが、それ以上に、神に愛され、神の 愛に応える人生でないと、人間の魂は満たされない。
教会は神が備えられた神の家である 。 神に愛されて、神の愛に応える神の家族である 。私たちの魂はここで生きた水を汲み、新たに生きる力を与えられる。そして、ここから主によって人々のところに遣わされる。
主イエスは 「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」と言う。蒔くとは神の福音を宣べ伝える働きであり、刈るとは救われた魂を神の家に迎える働きである。種を蒔く人は自分でその実を刈り取らなくても、失望しない。だれかが刈り入れるという希望をもって蒔くからである 。また、刈る人はだれかが蒔いたものを、今刈り入れているのだと感謝して刈る 。目を天に向ける者は「種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶ」。