【クリスチャンな日々】第25回 接続詞をひっくり返すと珍味がでてくる MARO

主の御名をあがめます。

MAROです。
今回もゆるゆると書かせていただきます。よろしくおつきあいくださいませ。
立冬を過ぎまして、朝晩は冷えるようになってきました。寒いから鍋だ!湯豆腐だ!という方も増えてきたのではないかと思います。僕も近頃は鍋料理を食べることが多いです。あったまるし準備も楽だしおいしいしと、三拍子揃っていますからね。

さて、そんな鍋料理ですが、僕は哲学科出身なものですから、食べながら少し妙な論理学について考えていました。論理学といってもそんなに堅苦しく身構えなくても良いです。たとえば、「寒い」と「鍋」を接続して繋ぐとしたら「から」ですよね。「寒いから鍋」。たぶんほとんどの方がしっくりくる論理だと思います。では、「暑い」と「鍋」を繋ぐとしたら?おそらく「のに」を使う方が多いのではないかと思います。「暑いのに鍋」。これもそれなりにしっくりきますよね。では、「から」と「のに」を入れ替えたら?「寒いのに鍋」。「暑いから鍋」。ちょっとおかしくなってきます。少なくとも一般生活の感覚では。

この「論理のおかしさ」が聖書を理解するコツなんじゃないかと、僕は考えていたんです、鍋をハフハフ食べながら。寒い「から」鍋、暑い「のに」鍋。頭の中から勝手に、ほぼ自動的に出てくるこの接続詞が、人の思考を何かに閉じ込めているのではないかと、そんなことを汁のたっぷり染み込んだあぶらげに上あごを火傷しそうになりながら考えていたんです。

聖書にはイエス様の弟子の代表格として、ペテロという人が出てきます。弟子の代表格といえば、たいそう立派な人なのかと思いきや、このペテロという人は聖書の中でも1〜2を争うほどおっちょこちょいな人です。しかしこのペテロさんが、イエス様召天後の教会のリーダーとして選ばれました。「おっちょこちょい」と「リーダー」をつなぐ接続詞はなんでしょう。普通に出てくるのは「のに」ですよね。「おっちょこちょいなのにリーダー」。しっくりきます。でも神様の視点から見ればもしかしたら「おっちょこちょいだからリーダー」なのかもしれません。

もう一つ聖書から例をあげれば、たとえばイエス様の復活。普通に考えれば死んだ人が生き返るなんてありえません。でもイエス様は生き返りました。これを普通に接続詞で繋げば「生き返るわけがないのに生き返った」ですが、これはもしかして「生き返るわけがないからこそ生き返った」のではないでしょうか。だって、誰もが普通に考えてできることをイエス様がやったところで、誰もイエス様を信じたりついて行ったりしないですからね。そんな風に考えると、この「接続詞の逆転」も、それほど不自然ではないように思えてきます。

先ほどのペテロの例だってそうです。誰が見てもリーダーに「ふさわしい」人をリーダーにしたって、それじゃぁせっかくの教会も「なんだ結局、他の集団と同じじゃんか」ということになってしまいます。「ふさわしくない」人をリーダーにして、しかもそこから大躍進を遂げてこそ、後世まで語り継がれるというものです。そう考えればこれまたこの「接続詞の逆転」も、それほど不思議ではなく思えませんか。

聖書の極意はこの「接続詞の逆転」にこそあるのではないでしょうか。キリスト教の教義を一言で言えば「救い」ですが、この救いは「良いことをたくさんしたから」「教会にたくさん寄付したから」などという、「○○したから」というロジックで与えられるものではありません。むしろ聖書は「俺は良い人間だから、さぁ神よ俺を救ってくれ」みたいな態度をとても嫌います。こんな態度を取る人にはむしろ「良いことをたくさんしたから救われない」という一見理不尽なロジックで神様は動いたりします。反対に「良いことを何もしていないのに」「教会に寄付してないのに」救われる、というのが救いのロジックです。むしろ極端に言ってしまえば「良いことを何もしていないからこそ」救われるとさえ言えます。このロジックの逆転、これが「恵み」とか「恩寵」と呼ばれるものであり、聖書を読むキーになるのだと思います。

何か二つの事象があったとき、人の脳みそはそれをなんらかの接続詞でつなぐようにできています。つながないと気持ち悪いんです。つながずにはいられないんです。それで、意識するしないにかかわらず、脳みそは一日に何十回も、もしかしたら何百回も、毎日その「接続」を行っています。するとその「接続」の作業に慣れてしまって、ほぼオートメーションでそれを行うようになります。「寒い」と「鍋」なら「から」、「暑い」と「鍋」なら「のに」のように。そのオートメーションをマニュアル操作に変えて、時々入れ替えてみたりする。そんなことが、もしかしたら聖書に限らず、毎日を面白くするために必要なんじゃないかと思います。

「苦手だから食べない」と「苦手だから食べる」。「面倒だから行かない」と「面倒だから行く」。もう少しややこしくすると「知りたいから学ぶ」と「知りたいのに学ぶ」。ちょっとシュールになってきますが、シュールな瞬間こそ笑顔のチャンスです。食べ物だって、もともとは捨ててしまうようなところにおいしい珍味があったりするんですから、そこにこそロジックの一番おいしい身が詰まっているかもしれません。ほじくり返して味わいたいと思います。

そんなわけで、僕は夏に鍋も食べますし、冬にかき氷も食べます。さっきコンビの仲良し店員さんに白くまを入荷しておいてくれるように頼みました。

それではまたいずれ。
MARO
でした。

主にありて。

横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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