NHK大河ドラマ「麒麟がくる」とキリスト教(24)ガラシャのための盛大な追悼ミサ(最終回)

1600年、「関ヶ原の戦い」のとき、細川ガラシャ(芦田愛菜)は西軍の人質に取られそうになったため、家臣に介錯され、そして細川屋敷は炎に包まれるという壮絶な最期を遂げた。そのこともあって東軍は勝利し、徳川家康(風間俊介)についた夫の忠興(望月歩)もその後、大いに取り立てられることになる。

そうして細川家のために亡くなったガラシャの葬儀はどのようなものだったのか。

(1)601年に大坂にいる時、(細川)越中(忠興)殿は、すでに触れたように前年に死去した妻のガラシアのために盛大な聖祭(ミサ)を執り行なうことを切に望んでいた。それは、彼女に寄せる強い愛情のため……である。……こうして、これを実行するために、その地方にいるすべての司祭、修道士、同宿を召集し、教会を立派に飾り、棺(ひつぎ)の上にガラシアの名前を書いた華麗な棺台を据え、おびただしい蝋燭(ろうそく)、大蝋燭でそのまわりをすっかり囲んだ。……(細川)越中殿自身が、1000人を越すであろうと思われるほとんどすべて異教徒の家臣とともに列席した。そして、我らの教会に駆けつける人々の賑(にぎ)わいは非常なもの……(だった)。(「1601、02年の日本の諸事」『16・7世紀イエズス会日本報告集』第I期第4巻、同朋舎、141ページ)

あれほどキリスト教を迫害していた忠興が、ガラシャに寄せる「強い愛情のため」、盛大な葬儀、しかもガラシャが信じていたキリスト教形式のミサのかたちでそれを執り行おうと考えたのだ。しかもそれは秘かにではなく、多くの武将が集まり、おびただしい人で賑わう大坂で正々堂々と行われた。それほど忠興としても、ガラシャの死によって大きな心境の変化があったということだろう。

(写真:pixel2013)

そのとき忠興はその追悼ミサに対してどのような反応を示したのだろうか。

異教徒の諸宗教(のこと)に精通し、弁舌さわやかな日本人の修道士が説教をし、……説教の終りにガラシアの徳行と死について語ったので、越中殿とその家来たちはいたく感動し、涙をこらえることができず、ただ泣くだけであった。すべての人が我らの教会の祭式の厳粛さとその説教で聞いたことに異常に驚嘆し、我らのことどもを飽くことなく褒(ほ)め、越中(忠興)殿は時々公然と(こう)言った。「日本で仏僧たちが行なう聖祭はこれに比べると笑止の沙汰である。これほど神聖で敬虔(けいけん)なものを見ようとはこれまで想像したこともなかった」と。(同、142ページ)

忠興の驚きはそれだけではなかった。関西の宣教師の責任者オルガンティーノが、忠興から与えられた追悼ミサのための費用をことごとく貧しい人たちに分け与えたのだ。それに対して忠興らは、「宣教師の隣人愛は偉大だ」と言って感心したという。

(忠興は)我らのことにすっかり親しみを抱いたので、すぐにその大坂の市(まち)で自分の家臣全員に、誰でも望みどおりキリシタンになる許可を与えようと言い、その日は、我らの同僚たちと自邸で食事をし、まるですでにキリシタンででもあるかのように誰に対しても好意や敬意を示した。(同)

これまで見てきたように、豊臣秀吉が1587年、「バテレン追放令」を出してキリシタンへの待遇を180度転換したことに従い、忠興もキリシタンの侍女たちを迫害し、ガラシャが教会に行くことも禁じていたほどだった。しかし、この葬儀ミサを契機にして忠興は、家臣がキリシタンになる許可を与え、自分も「キリシタンでもあるかのように」宣教師たちに敬意を示し、親しくなったという。

そうして九州の豊前(福岡東部と大分)に国替えとなった忠興は、ガラシャの1周忌である1601年8月25日、そこでも再び追悼ミサを行うことを望んだ。それは、大坂での葬儀に参列できなかったガラシャの二人の娘、長女の長と次女の多羅が熱心にそれを願ったからだ。

同年の7月に(細川)越中(忠興)殿は大坂から自領の豊前に行った(注、忠興は1601年1月30日に丹後から中津に入る)が、ガラシアのために執り行なった聖祭について司祭たちに心から感謝し、その際見聞したことにすっかり満足していたので、彼もその家来たちも他のことについて語ることを知らず、行事の詳細をすべての人に話すのであった。そこで、その同じ母(ガラシア)によって改宗し、やはりキリシタンである残された彼女との間の二人の娘たち(長と多羅)は、聞いたことに感動して、母の1周忌にあたる8月の某日にもう一度聖祭が催されることを強く望み始め、父にそれを行なうよう司祭にお願いしていただきたいと熱心に頼んだ。越中殿は、娘たちにこの慰安を与え、また妻の命日にこのような敬意を彼女に表することは当然であると思われたため、それに、自分ももう一度見たいし、この前の(聖祭)を見なかった家来たちに見せてやりたいということもあって、さっそく司祭に伝言を送った。(同、143ページ)

そのころ長は22歳、多羅は13歳。長はすでに結婚していたが、夫が秀吉の後継問題で切腹させられたため、細川家に戻り、17歳で妹の多羅と一緒に洗礼を受けていたのだ。

こうしてガラシャ1周忌の追悼ミサは次のように行われたという。

聖祭の日の朝、越中殿は、あたかも天下の主であるかのように威風堂々と多数の人を従えて来た。我々、司祭と修道士たちは中庭に彼を出迎え、彼をその席に案内すると、祭式を始めるためにすぐに身仕度し、司祭たちは長衣を、修道士と同宿たちは短白衣を着て棺台のまわりに腰を下ろして祭式を執り行なった。最後にミサを捧げ、(日本人)ジョアン・デ・トルレス修道士が、大部分は異教徒である聴衆に向かってきわめてその場にふさわしい説教をした。人々は異常な熱心さと驚嘆の念をもって聴き、また祭式全体を通じていとも恭(うやうや)しい態度を持し、被りものを脱いでつねに脆坐(ぜいざ)していた。したがって、大阪におけると同じようにここでも、異教徒たちの人出がおびただしかったにも拘(かか)わらず、非礼な行為や混乱は何一つなく、まるでキリシタンであるかのようにすべての人がきわめて控え目に振舞った。(同、145ページ)

忠興は、「豊前でこのようなものを見ることができようとは考えたこともない、そのために尊師らにはどのように感謝してもし切れない」と言って、教会にそのまま残り、何度も宣教師に礼を述べたという。そして、キリスト教に対して深い理解を次のように示している。

特に、司祭たちが二度と戻らぬ決意をして祖国や親類縁者を後にしてかくも遠方から日本に渡って来るその意図を慮(おもんぱか)り、これは、真の(霊魂)救済をきわめて確実に知っているからという以外にはありえないと語った。そして家臣と話している際に(こう)言った。「キリシタンがその故人たちのために執り行なう聖祭ほど神聖なものはない。救済を望むものは他のものを求めるべきでない。日本の宗派はことごとくふざけたもので、これ(キリシタン宗門)とは比べものにならないからである」と。さらに付け加えて、「予はまだキリシタンではないが、半ば改宗している」と。これらの言葉によって人々は、すでに以前から彼について考えていたこと、すなわち、彼がすでにキリシタンであるということを確認した。……この教会を見に来る人出はおびただしく、この3日間で3万人を越えたということである。……越中殿は上機嫌で、絶えず良心の苛責(かしゃく)に悩み、必要なことを知りたいとの欲求をもって多くの疑問を投げかけて私たちと私たちの教えについて語る以外に心のなごむことが決してないかのようである。そして私たちの教会に頻繁に通って、デウスのことどもについてすこぶる親密に司祭、修道士たちと話し、つねに大いに満足している様子である。(同、146ページ)

「予はまだキリシタンではないが、半ば改宗している」と忠興は言い切り、それが上辺だけの社交辞令ではない真摯(しんし)な求道的態度を誰はばかることなく見せたのだから、確かに忠興は「すでにキリシタンである」と誰もが思っただろう。さらに続いて3回忌のことにも触れられている。

当(1)602年はガラシア逝去3回忌にあたり、日本人はより盛儀をもって華やかに故人の法要を営む習しなので、越中(忠興)殿も、妻の(ための)聖祭をふたたびそのように営むことを選んだ。……この目的のために司祭2名、修道士1名、聖歌を歌う同宿7、8名と数台の楽器と豪華な装飾品が長崎から送られて来た。それは、本年の聖祭が盛儀と華麗さにおいて前年のそれに優(まさ)るようにするためであって、実際にそのとおりになった。これによって越中殿は心から感謝し、その家臣たちは大いに満足し教化された。(同、147ページ)

「1603、04年日本の諸事」にも次のようにある。「(細川)越中殿は異教徒ではあるが、毎年、キリシタンであった奥方のガラシアの命日に、司祭たちが彼女の(ための)聖祭(ミサ)を営むことを望む」(同4巻、268ページ)。また「1606、07年日本の諸事」にも、「ガラシアの(追悼)聖祭」のことが触れられている(同5巻、163ページ)。このように忠興は毎年、宣教師に依頼してガラシャのための盛大な追悼ミサを行い続けたのだ。それほど忠興にとってガラシャはかけがえのない存在であり続けたということだろう。

今回で「NHK大河ドラマ『麒麟がくる』とキリスト教」の連載はひとまず終わる。ガラシャと忠興について書かれた当時の宣教師の報告から、実際の歴史上のその姿が浮かび上がってきたのではないだろうか。ガラシャは明智光秀の娘として辛酸(しんさん)をなめ、最後に壮絶な最期を遂げたが、その背景には十数年に及ぶ信仰生活があり、あの忠興でさえ変えてしまうほどの赦(ゆる)しと愛があったことがこの連載で伝えられたらと思う。

日本史の専門家でもキリスト教についてはほとんど知らない人が多いので、こうした真実はあまり詳しく伝えられていない。また今日のクリスチャンも、戦国時代にかくも誠実にキリストの十字架の御跡を歩んだ信仰の人がいたということに誇りを持っていいのではないだろうか。

今回は宣教師の報告について虚心坦懐に読むことを心がけた。確かに宣教師と言っても、日本人への無理解や偏見があっただろうし、文章として書かれていない裏の事情や、信仰者をことさら美化しようとするバイアスもあるだろう。しかしそれも、まずはきちんと史料を読むことから始めなくてはならない。そうしないと結局、書き手の偏見で最初から歴史の真実がねじ曲がって伝えられ、自分の思い込みによるストーリーしか見えてこないからだ。

願わくは、この記事がきっかけとなって、ガラシャや高山右近など、戦国時代のキリシタンの真の姿に触れ、苦しみの中にある人への慰めと励ましとならんことを。

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雑賀 信行

雑賀 信行

カトリック八王子教会(東京都八王子市)会員。日本同盟基督教団・西大寺キリスト教会(岡山市)で受洗。1965年、兵庫県生まれ。関西学院大学社会学部卒業。90年代、いのちのことば社で「いのちのことば」「百万人の福音」の編集責任者を務め、新教出版社を経て、雜賀編集工房として独立。

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