細川忠興は最後まで洗礼を受けなかったとはいえ、キリシタンを誠心誠意大切にするようになった。
この人物(忠興)は妻のドナ・ガラシアの存命中は丹後国の国主であった。この丹後の国は小さいので、今、内府様(徳川家康)は豊前(福岡西部)の国、およびこれに接する豊後(大分)の国の3分の1と取り替えた。このことはキリシタン宗団にとって多大の利益であり、同地方の異教徒の改宗に大きな希望となった。(『16・7世紀イエズス会日本報告集』第I期第3巻、同朋舎、291~292ページ)
忠興は1580年から丹後(京都府宮津市)の領主だったが、1600年の「関ヶ原の戦い」の論功行賞によって豊前(福岡東部と大分北部)へと国替えになり、また18万石から34万石へと加増された。それがキリシタンたちにとって「多大の利益であり、同地方の異教徒の改宗に大きな希望となった」というのは具体的にはどういうことだろう。
戦(いく)さ(関ヶ原合戦)の時に大坂で死(を遂げ)多大の感化を与えたキリシタン婦人ガラシアの夫(細川)越中(守忠興)殿なる異教徒の領主のものに今ではなっているこの豊前の国に、当(イエズス)会は司祭館を有する。そこには、(1)601年に司祭1名、修道士2名同宿数名がいた。そして、(1)602年に司祭1名が増員された。全員一同は、既信者を助け、異教徒を改宗させることに携わっている。(1)601年にはかなりの数の異教徒が、(1)602には270人以上が受洗した。その大部分が(細川)越中殿の武士と下僕であった。(「1601、02年の日本の諸事」同4巻、134ページ)
ガラシャの死は当時、「多大の感化を与えた」という。それは忠興にも甚大なものだったようだ。忠興はキリシタンの侍女などを迫害し、ガラシャも教会に行けないよう監禁していたが、ガラシャの死によって自らが大きく取り立てられたからには、ガラシャが命がけで信じていたキリスト教を自分も大事にしなければならないと考えを改めたのだろう。
そうして城下町には教会が建てられ、宣教も大きく進んでいくのだが、その中で洗礼を受けた「大部分が(細川)越中殿の武士と下僕であった」という。つまり忠興は、宣教師やキリシタンを織田信長のように厚遇するようになったのだ。
なぜなら彼(忠興)は、キリシタン宗門に改宗した己が従臣たちに対して、男らしく好意をもつことに決心したからである。また彼は実際、現在好意をもっている。なぜなら彼は皆に洗礼を授かり、またキリシタンたちが利用するための教会を建てる許可を与えたからである。彼の貴人たちの中30名が洗礼を授かる機会を持っているが、彼らは長岡(細川忠興)自身から要理教育者の教理を聴くよう勧められた。なぜなら彼は、己が家臣たちと話し合った或(あ)る時こう言ったからである。人々には救霊に関することを説明する必要があり、そのために望む者が自由にそれを信仰するように。しかし誰も生活の道理やしきたりを変えるよう強制されるべきではない。また自分は皆が教理(カテキズモ)を学ぶ熱意を起こし、そして洗礼を授かることを熱心に望んでいる。なぜなら自分は今後は、洗礼を授かった人々の力を用い、そして洗礼を忌避する他の人よりは彼らにずっと栄誉と評価を与えるであろう、と。(同3巻、337ページ)
「1601年9月30日付、長崎発信、フランシスコ・パシオのイエズス会総長宛、1601年度、日本年報」には、忠興が宣教師を丁重にもてなした様子が詳しくつづられている。
この国主(細川)越中殿が司祭たちに抱く愛情と尊敬の念は大きくかつ著しい。彼は、提供されるあらゆる機会にそれを彼らに示し、彼自身がそのための機会を求めている。次に語る幾つかの機会からそのことが判るであろう。(同4巻、136ページ)
そうして4つのエピソードが紹介される。まず、隣国である筑前(福岡西部)から黒田官兵衛が、忠興の豊前(福岡東部と大分北部)への国替えを祝って訪問した時に開かれた壮麗な宴会についてだ。官兵衛がキリシタンなので、豊前にいる宣教師セスペデスにもそこに同席してもらいたいと忠興は頼んだという。官兵衛と言えば、家康から筑前52万石を与えられた黒田長政の父であり、2014年の大河ドラマ「軍師官兵衛」では岡田准一が演じた。1587年、豊臣秀吉による「バテレン追放令」で大名をやめた高山右近に代わり、宣教師が最も頼っていたキリシタン大名だ。
次に、忠興が「関ヶ原の戦い」などで尽力した武将たちをねぎらう会を催した時もセスペデスを呼んだことが述べられている。セスペデスは、外出できないガラシャに対して侍女などを通して信仰の指導をしたことで知られる。その後セスペデスは、豊前を治めることになった忠興のもとで中津教会の司祭として働き、ガラシャの命日には盛大な追悼ミサを行った(この追悼ミサの詳細については次々回に紹介する)。
さらに、肥後国(熊本)の初代藩主となった加藤清正がキリシタンに対して厳しい迫害を行っていることに対して、忠興がキリシタンを弁護したため、激した二人は斬り合いのケンカになるところだったという。
実は、ほかの箇所でも同様なことがあったと書かれている。ある高僧が徳川家康の権威と同意を取りつけて、宣教師を日本から追放しようとした時、忠興はこのように言ってその高僧の口を封じた。
「第一に、自分はキリシタンではない。しかしガラシアはキリシタンであった。そして、夫の名誉と今、日本の君主となっている内府(家康)の名誉のために生命を差し出して、キリシタンとして死んだ。そのため自分はかくも忠実な妻に感謝せざるをえず、自分にできる仕方で、彼女の霊魂が教済されるよう助けているのであり、こういう訳で、彼女の(ための)聖祭のために領内に伴天連(バテレン)を置いているのである。自分は正当な理由であって伴天連を援助せざるをえないのであって、こうすることは世間の誰にも結構だと思われるに違いない」(同、270ページ)
忠興がガラシャに対して心から感謝しており、それゆえに宣教師の働きを援助しているというのだ。その熱意が本気であるからこそ、加藤清正と斬り合いになるほど激昂したのであり、高僧に対してさえ道理を説いた。それほどガラシャの死は忠興を変えたのだ。(23に続く)
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