宗教に見えないカルト的「信仰」 【発達障害クリスチャンのつぶやき】

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 かつて教員をしていたころ、私はある部活の顧問でした。2泊3日の合宿をすることになりましたが、ある生徒が、どうしても初日は来られないと言います。その生徒曰く「うちの親は強烈だから……」。母親がその子に、ある有名大学のオープンキャンパスに行ってほしくて、それが合宿の初日と重なっているというのです。少なくとも「部活」というのは「課外活動」という立派な学校行事で、大学のオープンキャンパスに行くより優先順位は高いはずです。いろいろあった挙げ句、私はその母親と電話で話すことになりました。確かに手ごわい母親でした。いろいろ話した上でその母親は、「部活は遊びですから! オープンキャンパスのほうが大事ですから!」と叫びました。そう言いたくなる気持ちは十分にわかるのですが、直感的に私は「この母親はカルト宗教の信者だ」と思ったわけです。

 「自称進学校」の教員だった私は、そういう例をたくさん見てきました。多くの人が洗脳されていて、「いい大学へ入れば、いい就職ができて、いい人生が送れる」、逆に言うと「いい大学に入れなければ、いい就職ができなくて、いい人生が送れない」という教義を信じるカルト宗教の信者なのです。この教義を無意識のうちに頑なに信じている大人や子どもは多く、「他人の言うことに耳を貸さない」とか「じゃんじゃんお金をつぎ込んでしまう」といったところまで含めて、まさに「カルト宗教」の特徴とそっくりです。実際に「学歴信仰」という言い方がありますが、これはもはや「信仰」であって、ほぼ宗教なのです。

 「私は無宗教です。神や仏を信じていません」という人のなかにでも、いかにこういう「宗教に見えないカルト宗教」を信じている人が多いか。他にもいろいろ例が挙げられます。「宣伝」とか「広告」と言われるもののなかにも、それはたくさんあります。「南の島に行けば救われる『旅行教』」、「ペットに癒やされれば救われる『ペット教』」、「美容教」や「健康教」などが代表的なものでしょうか。もちろん私は、旅行に行くことも悪いことだとは考えておらず、ペットを飼うことも悪いことではないと思います。いい大学に受かりたいというのも自然な気持ちです。ただし、それが行き過ぎると「カルト宗教」になるだけです。

 キリスト教を広めることを「福音(ふくいん)を宣(の)べ伝える」と言ったりします。あるとき気づいたのですが、「宣べ伝える」を音読みにすると「宣伝」となります。どうやら宣伝というものは、おのずと宗教的なものだと言えそうです。キリスト教では、神ではないものを神のように拝む行為を「偶像崇拝」と呼んでいます。「無自覚的な偶像崇拝」は避けようがなく、本当にやっかいですね……。

腹ぺこ 発達障害の当事者。偶然に偶然が重なってプロテスタント教会で洗礼を受ける。東京大学大学院博士課程単位取得退学。クラシック音楽オタク。好きな言葉は「見ないで信じる者は幸いである」。

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