主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、詩篇の149篇です。よろしくどうぞ。
詩篇 149篇1節
新しい歌を主に歌え。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
キリスト教が音楽を重視する根拠となる聖句の一つです。神様は音楽を愛していて、僕たちに「どんどん新しい歌を作って私に聴かせてくれよ」と言っています。この聖句を愛し、胸に刻んで音楽奉仕に臨むミュージシャンも多いかと思います。
僕はミュージシャン時代、この聖句がとても好きでしたが、あるときこれがとてもしんどく思えました。その理由はこの「新しい」という部分です。新しい歌を作ることは時間も労力も精神力も多量に消費する作業です。しかも孤独な作業です。さらにしかも苦しい作業です。できあがった曲を演奏したり歌ったりするのは楽しいかもしれません。しかしそれを作るのには、もちろん楽しさもありますが、それを遥かに超える苦しみがあるものです。その苦しみはときには「地獄」とさえ思えるほどのものです。ですから僕にはこの聖句が、「私のために地獄をみろ」と言っているように思えてしまったんです。
「神様、簡単にしれっと新しい歌を歌えなんて言いますけどね、それ、めっちゃ大変なんですからね!その辺わかってます!?もう嫌ですよやってられないですよこんな苦しいこと!!」なんて言いたい気分になってしまったんです。でもそのときに神様は僕に「君の出す音は私が与えるんだから大丈夫。苦しいかも知れないけど尽きることはないよ」と教えてくれました。そのときから、作曲にせよ演奏にせよ、グッと技術が向上しましたし、周囲の評判だってよくなりました。
音大時代、共に学んでいた友人が「『音楽』って『音を楽しむ』って書くけどさ、ちっとも楽しくないよ。むしろ『音が苦』って書きたいくらいだ」と言いました。言い得て妙だと思いました。作曲家であっても演奏家であっても、真剣にそれに取り組んでそれなりの修練を積んでいれば「音が楽しい」なんて思えず、「音が苦しい」としか思えない時期が誰にでもあるものです。
「新しい歌を主に歌え」と言うと、みんなで楽しく歌いながら神様を崇めよう!という楽しいイメージを持つ人も多いかと思いますが、その音楽を作ったり演奏したりする側に立てば、とんでもない重荷であったりもするんです。しかし、それを重荷と思える人こそ、本当に神様に向かって、音楽自体に心を奪われることなく、褒め歌を歌える人かと思います。
音楽の道でプロになるには10000時間の稽古が必要だと言われます。どんなに好きなことでも、10000時間も稽古をすれば嫌いになる人が大半でしょう。反対に言えば10000時間の稽古を積んでなお、それを好きでいられる人だけがプロになれるということかもしれません。しかしそんな人でも必ずその10000時間の間には「もう嫌だ!心から嫌だ!」と思う瞬間はあることでしょう。その瞬間を迎えてもなお、さらなる一歩を踏み出せる人こそ、どんな道においても大成する人なのかと思います。そしてその「もう嫌だ!心から嫌だ!」と思う瞬間自体が、何よりも大切な糧なのかと思います。
神様がこの聖句によって僕たちに求めているものは、音楽自体ではなく、「もう嫌だ!心から嫌だ!」から踏み出す、困難と苦渋に満ちていながらも同時に尊く輝かしい、その一歩なのかもしれません。これはもちろん音楽に限ったものではありません。
教会生活自体だってそうです。長く教会に通っていれば様々な理由から「もう嫌だ!心から嫌だ!」と思えてしまう瞬間があるものです。しかし、その瞬間を迎えてもなお、さらなる一歩を踏み出すこと、それが信仰の真髄であるのかと思います。
音楽は楽しいばかりではないし、信仰もまた楽しいばかりではありません。どんな仕事も趣味も楽しいばかりではないでしょう。きっと「もう嫌だ!心から嫌だ!」と、何かに対して今日まさにその瞬間を迎えている人もいることでしょう。そんなときは、一歩だけでもいいんです。踏み出してみてください。一歩が無理なら半歩でもいいです。その一歩が、半歩が、何よりも尊くて有意義な一歩であり、半歩になるはずです。
それではまた次回。
主にありて。
MAROでした。
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