【宗教リテラシー向上委員会】 非情な問い 向井真人

あけましておめでとうございます。年頭にあたり、家門繁栄、子孫長久、諸災消除、万福多幸をお祈り申し上げます。

新年の抱負や誓いはしただろうか。幸せになりたい、豊かな生活を送りたい、心から満たされたい。抽象、具体はあれども、人々共通の願いだろう。願いは力になるが、ネガティブな方向に振れてしまうこともある。クリスマスや正月など、自分の孤独さを強烈に感じる時節がある。社会の目を気にしたり、周囲からの期待に応えられない自分とまわりを比較したりして、焦りや劣等感を感じてしまうのだ。

例えば結婚や子どもを持つことに関して言えば、「なぜ私はいま独りなのか」「なぜ子どもがいないのか」という問いが心に浮かぶこともあるだろう。しかし、そうした問いに答えを出すことは、必ずしも心の平安につながるわけではない。むしろ、その問いを追求すると、自分を見失ってしまう。感情に振り回されてしまうからだ。

家族同然に過ごしてきたペットが亡くなった時、心に穴が空いたような気持ちになる。論理的に言えば「命には終わりがある」と理解し、自然の摂理として受け止めねばならないだろう。ただ、それだけではかえって悲しみを押し込めてしまい、心の空虚さがますます深くなってしまう。悲しみや寂しさを感じることは自然なことだが、それに支配されてはならない。論理や感情が立ち上がる前の「本当の私」を見つめることこそが、心を静め、次に進む力となる、と考えてみてはどうだろうか。感情を無視することなく、論理にとらわれることなく、その背後にいる「本当の私」を大切にすることが、癒やしへつながるのだ。

論理と感情、どちらも大切にし、バランスよく扱うことが必要である。しかし、さらに重要なことがある。それは、論理と感情が生まれる前の「本当の私」を見つめることだ。

非情な問いとは、論理を問うものではなく、論理と感情が生まれる前にある「本当の私の見方」を思い出させるものだ。私たちは、論理や感情が動き出す前に、深いところで自分自身を見つめる瞬間を持つことが求められている。正論で殴ってくる、感情に振り回される、論理や感情は時として私たちを迷わせる。しかし、感情が起きる前の私、筋道が妥当だと推論し始める前の私がいる。私たちが何に悩み、何に苦しんでいるとしても、その背後には変わらぬ「本当の私」がいるのだ。

「なぜ子どもがいないのか」という問いは、「命のバトンを引き継ぐ人がいない」と感じることに行き着くかもしれない。非情な問いだ。しかし、それが何を意味するのだろうか。命は、必ずしも血縁を通じてつながっていくものではない。私たち一人ひとりが、自分の生き様を通して、次の世代に何かを伝え、何かを残すことができる。それが大切なことなのだと、私は信じている。論理的に言えば、確かに「命のバトン」を引き継ぐ人がいないかもしれない。しかし、「本当の私」の視点から見ると、それは単なる一つの現象にすぎないのだ。

非情な問いとは、論理や感情に答えを求めるものではない。それは、私たちが普段見落としている「本当の私」に気づかせてくれる問いである。私たちの心の中には、どんな状況にあっても、変わらず存在する「本当の自分」がいる。その静かな力を感じることこそが、私たちを豊かな人生へと導くのである。

向井真人(臨済宗陽岳寺住職)
 むかい・まひと 1985年東京都生まれ。大学卒業後、鎌倉にある臨済宗円覚寺の専門道場に掛搭。2010年より現職。2015年より毎年、お寺や仏教をテーマにしたボードゲームを製作。『檀家-DANKA-』『浄土双六ペーパークラフト』ほか多数。

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