悟りとは己の愚かさを知ること 向井真人 【宗教リテラシー向上委員会】

12月8日はお釈迦さまがお悟りを得た日とされている。極端な苦行は無益と知り、体力を回復し改めてご修行をなされ、この世の真理にお気づきになられた。例えば縁起。この私とは自分一人の力で生きているのではない。あらゆるものはつながり、お互いを支え合う。大きなつながりの中で、私は認識され生かされている。縁起などの仏の教えとは、この世の仕組みの話だ。世界の絶対に変わらない設定と言ってもいいかもしれない。その設定を作った者がいるのかどうか、いたとしたらどのような者か、人格があるのか、については述べない。

真理とは世界構造のことであり、私たちはその仕組みの中でしか生きていけない。仕組みが分かれば、生き方が示される。仏教ではままならなさに振り回される苦しみの世界を輪廻していることが提示されており、解脱を目指す。人として生まれ、仏教に出会えたことは幸運なのだ。

異世界転生アニメや同一人生を繰り返すドラマなど輪廻系コンテンツが、昨今メディアによく見受けられる。「また人として生まれたい」期待とともに、「もう一度やり直したい」「できれば有利な状態で」と楽勝な人生と幸せを夢見ているようだ。例えば人間として、思ったとおりの地域や、場所や、社会・家庭環境に生まれることができたとしよう。そうだとしても、ままならなさに振り回される苦しみの世界には違いない、と仏教では見つめる。社会的に本当に生きやすいとはどう言うことかといえば、生まれる時代も地域よりも、この世の仕組みを肚の底から腑に落ちているかどうか。私には私が私であることの根拠を持たない、つながりの中に存在できていると知り、実地で生きることだ。

「仏教の宇宙論:須弥山世界観」を表現した絵画

時代や地域によって、結婚観や仕事観といった価値観は違う。異性婚しか認めない地域もあれば、同性婚がおおっぴらにされていた時代だってある。つまり価値観の軸が時代や地域ごとに相対的に違うならば、その軸から外れると生きづらくなってしまう。しかし、絶対の軸があれば生き方が示される。仏の教えを文字にしてまとめたものを経というが、経とは縦糸という意味を持つ。どんな時代でもどこの地域にいてもそこで生きている人間の生き方を共通に貫く縦糸である。

経には、日々過ごす上での戒めであったり、勧められる良い行いが示されているが、それらは守られれば善人であると証明される条件・ルールではない。ただこうである、という世の仕組みなのだ。ここを誤ると道も誤る。

例えば不殺生や不邪婬といった戒めがあるが、傷つけないようにという縛りではなく、ただ私は傷つけない。ただ私は邪で淫らな行いをしない、というだけのことなのだ。自分を傷つけなければ正しいということでもないし、他人を傷つけなければ誰かに褒められるわけでもない。戒めを保てば価値があるとか、ルールを破る人間は価値がないため存在を否定されても仕方がない、という話ではない。世界からあなたは良い行いをする存在である、そのようである、と認められているだけなのだ。ここに気づけるかどうかが試されている。

「現代の価値観に合わせて、無駄を省こう。必要とされていないのであれば、なくせばいい。争いのタネになるなら、整理した方がいい」。相対的な価値を絶対的な評価軸と勘違いして、条件付けをするのが人間の性だ。苦行は無益だと目覚めたように、自分だけは! 自分以外は! と外に向ける気持ちを内側に振り向けたい。お釈迦さまがお悟りを得た日とは、至らない自分に気づく日である。

向井真人(臨済宗陽岳寺住職)
 むかい・まひと 1985年東京都生まれ。大学卒業後、鎌倉にある臨済宗円覚寺の専門道場に掛搭。2010年より現職。2015年より毎年、お寺や仏教をテーマにしたボードゲームを製作。『檀家-DANKA-』『浄土双六ペーパークラフト』ほか多数。

関連記事

この記事もおすすめ