彼岸を渡す橋 向井真人 【宗教リテラシー向上委員会】

季節とともに宗教施設は動いており、合わせて関連行事や仏事も行われる。例えば当寺であれば、1月にはお正月、2月にはお釈迦さまのご命日涅槃会、3月には春のお彼岸、4月にはお釈迦さまの誕生を祝う花まつり、5~6月にはお施餓鬼、7〜8月にはお盆、9月には秋のお彼岸、11月には大般若祈祷会、12月には年の瀬を迎える。こう見ると10月だけ行事はないが、宗派ごとの催しもあり、行事予定があるということは1カ月くらい前から準備をしているので、常に動いている。

さらには定例座禅会や法話会、教会や聖堂であれば毎週の礼拝もあるだろう。お寺だけでなくすべての宗教施設は、有縁無縁の方々へと常にさまざまな形でメッセージを発信している。伝道者は、自分たちの発信する内容とは何か、向き合い続けているということでもある。

「彼岸(ひがん)」という呼び方は、私たちは此岸(しがん)であるこの現実にいて、亡くなった人たちは彼岸である向こう側の世界にいるのだ、と故人を偲び、私たちが今を生きていることを意識させる。春と秋のお彼岸は、1年のうち、夜の時間と昼の時間が同じである時期。太陽が真東からのぼり、真西へと沈む。昼と夜の時間がまったく同じとなるために、あの世に通じやすくなる期間といわれる。そこから亡き人の世界に思いを馳せたり、悟りの世界への修行をがんばる期間、お墓参り強化週間ともいわれる。

「彼」の「岸」ということは、何かしら分断された線引きが行われ、向こう側があるということ。あの世や悟りの世界と書いたが、私たちが「あちら側」という時、どのようなことを想像しているだろうか。また、向こうがあってこちらがあるとしたら、誰がどのような線を引いている時なのか。区別をしている価値判断は正しいものか、線引きをしている基準は絶対のものなのか。

アイツとオレは違う。しかし同じ人間だ。線引きが行われるからこそ、相手がいて、私がいる。線を引かれることによって相手を、自分を、どこが同じで違うかを引き立たせる。自分の存在を確認するには、自分以外の何かに囲まれて、他人からの認知の反射として自分を確認するしかない。そんな時、他者の評価に振り回されずに、無心に、謙虚に自分で自分を受け止めることだ。他者の評価は真摯に受け止め、つながりの中にいる私を認め、私の価値を私自身で引き受ける。だから、つながりの中にこそ自分は存在し得る、自分を頼りにして努めよ、とお釈迦さまは言うのだろう。

生きている人だけの世界に住む私たち。しかし、こちら側だけでぐるぐると堂々巡りしていては辛く苦しい時がある。生き死にの線引きをすることで、ふと、死者から超えてくる想いを感じる。生ける者から死者への願いや誓いが現れる。すると、自分で引いた線の外から俯瞰して自分を見つめることとなるのだと思う。彼岸とは、想い、誓いや願い、分断する線引きを渡す「橋」のことを考える期間なのだ。

4月はお釈迦さまの誕生月。仏を「人」型に「象(かたど)る」と書いて、仏像。亡くなったものの居場所について書かれた札と書いて、位牌。仏壇に祀られる仏とは、私たちとは明確に分けられた存在だろうか。私たちと同じ人間であるお釈迦さま、その言動録や後世の経典は私たちと仏を渡す「橋」である。この橋を点検したり、掛け直したりすることが彼の誕生を本当に祝うことなのだろう。

向井真人(臨済宗陽岳寺住職)
 むかい・まひと 1985年東京都生まれ。大学卒業後、鎌倉にある臨済宗円覚寺の専門道場に掛搭。2010年より現職。2015年より毎年、お寺や仏教をテーマにしたボードゲームを製作。『檀家-DANKA-』『浄土双六ペーパークラフト』ほか多数。

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