聖書は読むが教会には行かない? 山元 眞 【教会では聞けない?ぶっちゃけQ&A】

Q.信仰をもって聖書も読むが、教会には行きたくないという信徒をどのように牧会すればよいでしょうか?(30代・牧師)

聖書を読む時、私たちは他の書物と同じようには読みません。つまり、聖書は伝記でも小説でも随筆でも、戯曲でも詩でも歴史書でもありませんので、そのようには読まないわけです。聖書は様々な文学類型に似た形をとってはいますが、そのものではありません。

聖書は人間の歴史の中に介入した神の業と言葉を伝えるものです。そういう意味で、信仰をもって読む書物であるということができるでしょう。人類の歴史に介入された神の業と言葉に出会った人、もしくは人々が伝えたものです。

私たちは聖書を読む時、伝承によって伝えられた神と出会うのです。聖書の内容は教会の中で伝えられたこと、福音を受け止めて信じた人たちの信仰宣言でもあるのです。

つまり、聖書は教会の書物なのです。新約聖書の書き物にしても、そのすべては教会の中で伝えられてきたものです。パウロの手紙にしても、牧会書簡にしても、福音書にしても、それらは教会とのつながりなしには理解できません。そういった意味では「聖書は教会の中で読む」ものなのです。

「信仰をもって聖書も読むが、教会には行きたくない」という声が聞かれます。それはまだ、教会が教会になっていない証拠なのかも知れません。神の言葉に触れ、それをいただいて生かされている私たちが、まだ、神の望まれる教会になっていないということです。厳しいことですが、この現実をしっかりと謙虚に受け止めることが、まず必要だと思います。

「教会に行きたくない」というのにはさまざまな理由があるでしょう。神を信じ、神に呼び集められた人たちの教会。それがこの世界の救いの道具となります。信者同士の人間的な争いや偏見や誤解、好き嫌いで作られている人間関係などが改められない限り、このような声がなくなることはないでしょう。

地道に「神の望まれる教会づくり」に励むことしかないのでは?

やまもと・まこと 1953年福岡県生まれ。80年、カトリック司祭となる。81~85年、ローマ在住(教会法研究)。福岡教区事務局長、福岡カトリック神学院院長などを経て、カトリック西新教会主任司祭、西新カトリック幼稚園園長。2019年、来日したフランシスコ教皇に「カトリック新聞」記者として同行した。

【既刊】『教会では聞けない「21世紀」信仰問答Ⅱ -悩める牧師編』 上林順一郎監修

関連記事

この記事もおすすめ