主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、民数記の11章です。よろしくどうぞ。
民数記 11章4〜6節
「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも。だが今や、私たちの喉はからからだ。全く何もなく、ただ、このマナを見るだけだ。」
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
モーセが率いるイスラエル人たちはまた神様に文句を言い始めました。「肉を食わせろ!マナにはもう飽きた!」と。マナというのは神様がイスラエル人たちに与えた不思議な食べ物で、白くて甘くてとてもおいしかったとあります。人々は最初はこのマナを喜んで食べたのですが、もうその味に飽きてしまっていたのでした。それで「肉が食べたい!これならエジプトにいた時の方がマシだった!」と言い出したのでした。
確かに、どんなおいしいものであっても、それを毎日食べ続けていたら飽きてしまうこともあるでしょう。とはいえ、イスラエル人たちのこの言い草はあんまりだとも思います。現代の日本では様々な食事がありますけれど、いくらか昔であれば「毎日ごはんは嫌だ!パンとかパスタとか食べたい!肉も食べたい!」なんて子どもが言ったら怒られたことでしょう。食べ物はあるだけでありがたいものです。
しかし、僕たちクリスチャンもこのイスラエル人みたいなことを言ったり思ったりしてしまうことがあるのではないでしょうか。聖書を信じて教会に行って、洗礼を受けた頃は「神様は素晴らしい!聖書は素晴らしい!教会は素晴らしい!」と喜んでいたはずなのに、時間が経つと僕たちもまた「飽きて」しまうことがあります。正直なところ、僕にもあります。「日曜日には教会じゃなくて神宮球場に行ってビール飲みながら野球をみたい!」なんて思ってしまうことがあります。「日曜日は教会に行かずに昼過ぎまでのんびり寝ていたい」なんて思ってしまうこともあります。それはつまり最初はあれほど喜んでいた神様の恵みに「飽きて」しまっているということです。なんとも人間とは罪深い。少なくとも僕は罪深い。
「飽きる」というのは、昨日のことを覚えているから生じる感情です。昨日のことを覚えていなければ、毎日同じ食事が出てきても「昨日もこれだったよ」なんて思えないんですから。もちろんだからと言って「昨日のことをすべて忘れなさい」なんていうのはちょっと乱暴ですけれど、それでも毎日を少しでも新鮮な気持ちで過ごすことは大切だなと思います。「飽きる」というのは人間に特有の感情かもしれません。動物は毎日同じものを食べても「飽きた」なんて言いませんから。それに、「飽きる」のは脳であって、お腹は飽きません。毎日同じものを食べて「これ、昨日も食べた」と認識するのは脳です。お腹は毎日同じものを食べても栄養が足りていればそれで満足します。ですから食べ物に「飽きる」というのは、お腹で食べずに脳で食べている証拠かもしれません。罪を犯すのは常に脳です。お腹は罪をおかしません。お腹は、満たされれば「もっともっと」とは決して言いません。毎日「今日の分」を消化して栄養にするだけです。「もっともっと。でも昨日と同じのは嫌だ。なんなら明日の分もくれ」とかいうのは常に脳です。
マナを人々に与えた時、神様は言いました。「今日の分だけとりなさい。明日の分までとってはいけないよ」と。この「今日の分だけとる」ということが、毎日を新鮮に保つコツなんじゃないかなと思います。「飽きる」ことから罪が生まれることも多々ありますから、これを心がけていたいなと思います。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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