主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は新約聖書、コリント人への手紙第一の5章です。よろしくどうぞ。
コリント人への手紙 第一 5章12節
外部の人たちをさばくことは、私がすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
コリントの教会には「淫らな行い」をする人たちがいたようで、それに対してパウロは怒っています。「そんなことはゆるしてはいけない!」と怒っています。しかしパウロは「教会の中の人に、そんな人がいてはいけない」とは言っていますが、教会の外の人に関しては「そんなのは放っておけばいい」とも言っています。自分たちの外側の罪に目を向けて怒るのではなく、自分たちの内側にある罪に目を向けてなんとかしなさいと言っています。
現代の教会でも同じことは大なり小なりあるように思います。世の中、世間一般に対して抗議の声をあげつつ、自分たちの非にはあまり目を向けないような。これは教会に限ったことではありません。個人としても、たとえば世の中に対して「不倫はゆるされない!」と叫びつつ、身内の不倫には「まぁそんなこともあるよね」となぁなぁに済ませてしまうような。外に厳しく内に甘く。これはどんな個人でも集団でも陥りがちな悪魔の罠のように思います。
聖書を信じていない人たちに対して「それは聖書に反している!」と抗議の声をあげても、それは相手には響きません。それよりも自分が聖書に従えているのかどうか、そちらに目を向ける方が有益なことだと思います。だって反対にクリスチャンがお寺さんに「それは仏の教えに反している!」と怒られても「ああそうですか。しかしそう言われましても」と対応に困るだけで、こちらの考えは変わりませんよね。
もちろん、社会に声をあげることも、世間に働きかけることも大切なことです。しかしそれよりも大切なことはまずは自分自身、自分たち自身を吟味することだと思います。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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