主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、箴言の18章です。よろしくどうぞ。
箴言 18章17節
最初に訴える者は、相手が来て彼を調べるまでは、正しく見える。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
何かを最初に訴えたり主張したりする人は、少なくとも始めのうちは正しく見えます。たとえば他人の夫婦喧嘩は、どちらか一方の話を聴けば少なくとももう一方の話を聞いてみるまでは正しく聴こえます。新しい切り口の考え方も、それに対する反論が出てくるまでは正しく見えます。「私は被害者だ!」と訴えていた人が、よくよく状況を調べてみると実は加害者だったなんてこともあります。サスペンスドラマなんかを見ていますと、第一発見者として通報した人が実は犯人だった、なんて展開もよくありますし、現実世界の警察の捜査でも実はそんなことが少なくないようです。
こんなことが聖書に書いてあるのはすこし意外にも思えますが、ソロモンは王として様々な人の意見を聞き、調整しなくてはならなかったのでしょうから、その際にこのような戒めは大切だったのだと思います。一方の訴えだけを聴いて、それがどんなに正しそうに思えたとしても、ちゃんと必ずもう一方の話も聴かなければならないということです。まして、一方の主張だけを鵜呑みにして、もう一方を糾弾するなんてことはしてはいけないということです。
テレビのニュースなんかを見ていますと、実は僕たちの社会はここでソロモンが戒めていることを意外とやってしまっているなと思います。特にワイドショーでは様々な事柄に対して一方の意見を強くとりあげ、もう一方の意見をあまり取り上げないようなケースが目立ちます。それに引っ張られてか、SNSの世界でも様々な問題に対して一方の意見だけを取り上げて他方を攻撃するようなことが多く見られます。
中国の古典『論語』を読むと孔子は無条件に正しいような気分になってきます。しかしそれと対をなすとされる『老子』を読むと、孔子が無条件に正しかったわけではないと分かります。ジョン=ロックやフランシス=ベーコンを読めばイギリス経験論が素晴らしく正しいように思えますが、デカルトも読んでみるとそれにも欠点があることが分かります。新日本プロレスだけを見ればアントニオ猪木だけが唯一絶対のヒーローのように思えますが、全日本プロレスも見ればジャイアント馬場もそれに勝るとも劣らないヒーローであると分かります。
何か一つの言説や考え方、価値観をきちんと知るためにはそれ自体をよく知ることはもちろん大切ですが、それと対をなす価値観を知ることも不可欠です。片方だけを学ぶなら、それが正しく思えて当然なんです。それが本当に正しいのかを知るためには、それと対抗するものについても学ばなくてはいけません。
聖書やキリスト教も、それだけを学ぶならそれが正しく思えて当然です。しかしその本当の正しさを知るためには他の宗教や無神論やスピリチュアリズムなどについて学ぶことも大切かと思います。そういった他のものを学んでみることによって、聖書の正しさが鮮やかに浮き彫りにされます。自分の信じるものが本当に正しいと確信しているなら、他のものを学ぶことを避けることも恐れることもありません。
それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。
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