すべてこれでよかったのではないか 【発達障害クリスチャンのつぶやき】

PIROによるPixabayからの画像

あの両親のもとに生まれたことは呪いでした。今でもそうです。これからも、障害年金の受給のために、「障害で困るようになった時期」を書くとしたら、発達障害ゆえに整理整頓ができず、毎日、激しい叱責を受けるようになった「6歳」と書くでしょう。しかし、6歳のころのことは、もうどうでもいいのではないかと思えてきました。

両親は、私が生まれてから46年間、変わることはありませんでした。いまだ1ミリも変わっていません。しかし、今年(2022年)5月、一切の縁を切ってから、これもどうでもよくなってきたような気がします。両親をゆるしてはいません。でも、今さら何を言っても変わらないし、どうでもいいのではないか。

30歳のときから新卒で15年と11カ月勤めた職場も、ずいぶんひどい目にあってきましたけど、どうでもいいのではないか。あまりにハラスメントがひどかった2018年秋、私より若いある牧師の案で、上司のハラスメントをスマホで録音しました。その録音は今も残っています。でも、もういいのではないか。

長いこと、同じ大学を出て、ものすごく高い地位、ものすごくたくさんの年収を稼いでいる仲間が、正直ねたましかった。こんなに学歴が高くて、こんなに落ちぶれている人など見たことがないように思います。「友が皆われよりえらく見ゆる日よ」。しかし、負け惜しみじゃなく、本当に「すべてこれでよかったのではないか」と思えるようになってきています。私の人生は、これでよかったのではないか。

発達障害ということも、どうでもよくなってきた。キリスト者であることもどうでもよくなってきた。発達障害といっても100人いたら100通りだし、みんな困っていることはさまざまです。ただ、ひとりの(ちょっと変わっている)人間として、困っていることは助けてもらうということです。

そして、「困っているときは助けてもらう」だけに思えた私の生きざまも、たまに人を助けることができるようになってきた。最も多いのが「採譜」(音楽を耳で楽譜に起こす仕事)で人を助けることです。「披露宴での出し物」「幼稚園の発表会」だけでも、どれだけ人を助けて感謝されているか。それによって実は、かえってこちらが励まされているのです。教会の説教だって、こちらが「聴きに行ってあげている」側面があるし、マザー・テレサも「インドの貧しい人を支えた」と言うけれども「インドの貧しい人がマザーを支えていた」面は大きくあるだろうと思います。助けるのと助けてもらうのはそれほど差がないと言えます。

「先にあったことを思い起こすな。昔のことを考えるな。見よ、私は新しいことを行う。今や、それは起ころうとしている」(旧約聖書イザヤ書43章18節以下)と聖書はいいます。いい意味で、だいぶ「昔のことを考え」なくなってきた気がします。そんな日が来ようとは思えなかったものです。ずーっと昔のことを恨んで生き続けるのかと思っていました。「すべてこれでよかったのではないか」と思えるようになる日が来るとは。自殺さえしなければ、いつかそんな日が来るのかもしれません。47年近く生きてきて、こんなにいろいろなものから解放されるとは思っていませんでした。つかの間、こう思っているだけの可能性もあります。私の「好調」は長く続いたためしがありませんからね! でも、新しいことが起ころうとしています。

ただ、みんな困っているのです。困っている人は助け、自分が困っているときは助けてもらう。これは私の人生です。人がどう言おうと、これでいいのではないか。「このしばらくの軽い艱難は、私たちの間に働いて、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」(新約聖書コリントの信徒への手紙二4章17節)。決して「軽い艱難」ではなかったけれど、永遠の栄光が待っているという希望に生きてよいのではないだろうか。気休めみたいな話でごめんなさい。でも、「信仰と、希望と、愛」という言葉は決して絵空事ではないと思えます。

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