分からないことを分からないというのは恥じゃない【聖書からよもやま話273】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、民数記の9章です。よろしくどうぞ。

民数記 9章8節

モーセは彼らに言った。「待っていなさい。私は主があなたがたについてどのように命じられるかを聞こう。」(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

イスラエルの指導者だったモーセはある時、いけにえの捧げ方についての質問を受けました。ちょっと難しい質問だったのでモーセはその場で答えることはせず、「ちょっと待っててね。神様にどうすればいいか聞いてくるから」と言いました。

これ、大切な姿勢ですよね。難しいことや分からないことを尋ねられた時に、その場でしったかぶりをせずに、ちゃんとしかるべき確認をするという姿勢。クリスチャンなら難しい信仰上の問いが生まれた時に、自分の経験や知識だけで判断するのではなく、神様に祈り尋ねるという姿勢はとても大切なことです。いわゆるカルト教団の教祖さん達は、きっとこの姿勢に欠けているのかと思います。聖書や祈りではなく、自分の思想や知識、さらには願望に従って自己流の答えを教えてしまうことを繰り返しているうちに、いつの間にやらその自己流が「教義」になってしまって、戻るに戻れないカルト化への道に突入してしまうこともあるのかと思います。これはカルト教団のみならず、「まっとうな」教会でも注意しなくてはいけないことです。牧師や教師などの「教える立場」の人が「自己流」に走ってしまうことは、カルト化の道に陥る落とし穴です。
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もちろん、この姿勢はクリスチャンじゃなくても大切なことです。僕は行政書士の仕事をしていますが、お客様からちょっと難しい質問をされた時は「一度持ち帰って、後ほどお答えしますね」と言うことにしています。記憶が曖昧な法律の細かい規定なんかを、曖昧なままで答えてしまえば、大きな間違いの危険にお客様をさらすことになるからです。最悪の場合はお客様に違法行為をさせてしまうことになるかもしれません。これは僕だけに限ることではありませんし、行政書士だけに限ることでもありません。弁護士さんでも税理士さんでも司法書士さんでも、多くの士業の方はこういう姿勢で仕事をしていることと思います。「その場で答えられない」ということは、専門家にとって恥ではありません。むしろあやふやな答えをしてしまうことの方がよっぽど恥です。その道の専門家であるからこそ、分からないことは分からないという勇気が必要なんです。

知ったかぶりは時として恐ろしい結末を呼び込みます。まして人に問われた時の知ったかぶりは、その相手をも恐ろしい結末に引き込んでしまうのですから、よくよく気をつけなければいけません。でもこれが、偉くなればなるほど、有名になればなるほど、難しくなっていくものなんでしょうね。テレビのコメンテーターさんなんかを見ていますと、特に間違った情報や失言で「炎上」してしまう方なんかを見ていますと、そんなことを思わされます。その点、イスラエル民族のトップと言える立場であっても、分からないことをちゃんと分からないと言ったモーセさんはすごいなと思います。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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