主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、 列王記第二の18章です。それではよろしくどうぞ。
◆列王記第二 18章30節
ユダ王国の王ヒゼキヤは、「主が必ずわれわれを救い出してくださる。この都は決してアッシリアの王の手に渡されることはない」と言って、おまえたちに主を信頼させようとするが、そうはさせない。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
ヒゼキヤは後にも先にもこれ以上の人はない、というほどに神様に忠実な王で、民にも神様に従うことを求めました。それに対して敵国アッシリアの高官は「おまえたちの神なんかよりも、我が国の力の方がすごいのだ。そんなもん信じるのはやめて早く我らに降伏せよ!」と、呼びかけました。しかし民はヒゼキヤの命令に従って誰もその呼びかけに答えませんでした。きっとどんなにか怖かったことでしょう、大国が大軍勢を率いて攻めてきて「降伏しろ」と叫ぶのを無視したのですから。合理的に考えればどうにも勝てない相手から「降伏したら生活は保証するぞ」と呼びかけられたのを無視したのですから。
現代の社会も時として「神様なんて信じても何も良いことなんてないよ」と僕たちにささやきます。「日曜日に教会なんか行くよりも、好きなことをして遊んだり、好きなだけ寝たりする方がよっぽど有益だよ」とか「教会に献金するなんてもったいない!それだけのお金があったら、あれも買えるしこれも買えちゃうよ」とか「神様にいくら祈ったって、災害や戦争はなくならないじゃないか」とか。悪魔は「合理的に考えたら、君らのやっていることは敗北でしかないよ」と、あらゆる局面でささやきます。
それはたしかに「合理的に考えれば」正しいのかもしれません。しかし神様の力は必ずしも合理的に働くものではありません。理を超えたところで働くのが神様の力です。アッシリアもこの時、たしかにさんざんにヒゼキヤを悩ませはしましたが、結局ユダ王国から撤退しました。次の19章には「主の使い」が一夜にして18万5000人を討ったと記されています。それがどんな手段だったのかは書いてありません。おそらく合理的な考え方では想像すらできない、なんらかの必殺技を使ったのだと思います。モーセが海を割った時にせよ、イエス様が十字架から復活した時にせよ、神様はいざという時には、合理的思考ではまったく想定できないような必殺技を使います。
これから繰り出される神様の必殺技がどんなものなのか、それはヒゼキヤにも想像できませんでしたし、現代のクリスチャンにも想像できません。モーセだって自分が海を割るなんて想像していませんでした。イエス様は自分が復活することを知っていましたが、周りの人たちは誰一人としてイエス様が復活するなんて思っていませんでした。だから僕たちもそれがどんな技なのかを知る必要はなく、ただ「神様にはいつだってとんでもない必殺技があるのだ!」ということだけを覚えておけばいいんです。絶体絶命からの起死回生の必殺技を、僕たちはいつでも期待して良いのですし、むしろ期待していなければいけないんです。
それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。
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