哲学青年であったアウグスティヌスの、当時の心の中を探り出す
アウグスティヌスが書いた最初の本『美と適合について』には、まだ論じておくべきことが残っています。それは、若き哲学青年であった彼がこの本を、ヒエリウスという哲学者に捧げたという一事実にほかなりません。
「しかし、主よ、わたしの神よ、わたしを動かしてこの書物をローマ市の弁論家ヒエリウスに捧げさせたのか。わたしはまだかれと面識はなかったが、学問上の名声のゆえに、その人を敬愛していた。またかれの学識は世に聞こえていたので、その二、三の言説をきいて感心していた……。」
この事実から後年のアウグスティヌスがどのような考察を引き出しているのかを、今回の記事では少し詳しく探ってみることにしたいと思います。
ヒエリウスとは、いかなる人物であったか?
まずは、事実の確認から始めておくことにします。アウグスティヌスが『美と適合について』を捧げた相手であるヒエリウスという人は当時、哲学をしている人ならば誰も知らない人はいないという位に有名な哲学者に他なりませんでした。
それも、哲学だけではありません。ヒエリウスは、ありとあらゆる知識に通じているだけでなく、ギリシア語の弁論もラテン語の弁論もなんなくこなす哲学者として、ローマ帝国中にその名をとどろかせていました。今ではこの人がどのような哲学を奉じていたのか、その詳細な情報は残されていませんが、当時の帝国の首都ミラノに近いローマで喝采を博する知識人として、地中海をはさんでアフリカのカルタゴで暮らしている青年アウグスティヌスの所にまでも、その噂は届いていたというわけです。
事情がそのようであってみれば、アウグスティヌスが自分の本をヒエリウスに捧げたという事実もまた、「まあ、そんなものか」という位で通り過ぎてしまうこともできるかもしれません。ところが、『告白』において壮年のアウグスティヌスはこの事実のうちに、過去の自分自身の心のあり方を知り、見つめなおすための大きな手がかりを見て取っています。自らの魂のあり方を振り返る際に発揮されるこの洞察の鋭さが、『告白』という本を単なる自伝文学以上の書物にしています。後年の彼にとって、この事実は、どのような意味で重要なものであると思われたのでしょうか。
自己自身へと向けられる問い:「何のために哲学するのか?」
哲学の道を行く人が人生のさまざまな場面において繰り返し問われることになる、次のような問いがあります。
問い:
「あなたは、真理そのものを魂の奥底から求めるがゆえに、哲学しているのか?それとも、人から賢いと思われたい、知恵があると褒められたいがゆえに、そうしているのか?」
胸に手を当てて考えてみて、「わたしには、人から褒められたいという欲望など全くない」と断言できる人はおそらく、この世にはいないことでしょう。良きにつけ悪しきにつけ、知恵や知識があるとされる所には、注目が集まります。その注目が、集められる称賛のまなざしが、知恵を純粋に追い求めていたはずの人をも罠にかけずにはおかないのです。アウグスティヌスは、次のように当時のことを回想しています。「またわたしはどうして確信をもって告白するのか。もしもかれを賞賛するのと同じ人たちが、かれを賞賛せずに非難し、軽侮しながら、かれについて同じことを語ったなら、わたしはかれに対して熱中することも、感激することもなかったと思われるからである。」
青年アウグスティヌスが自分の本をヒエリウスに捧げたのは、この哲学者が多くの人の注目を集めていたからでした。彼は、いずれ自分もヒエリウスのようになりたい、皆の人気者になって、世間の賞賛を浴びたいと思ったからこそ、そうしたわけです。彼の内側には純粋に真理を求める気持ちも確かにありましたが、その思いはいまだ、名誉への欲望と多分に混じり合ったものであったといえます。
アウグスティヌスがこれからこの「名誉への欲望」からだんだんと解放されてゆくかというと、その逆で、彼はこれから自分自身の持っている欲望の力に引きずられていって、「この世の天国という名の地獄」に落ち込んでゆくことになります。しかし、そのただ中で魂の苦悶を味わい、もうこんなことは沢山だと叫びたくなるような絶望をくぐり抜けて「新しい人間」として生まれ変わった時には、アウグスティヌスにはそれまでとは全く異なる生の可能性が示されることになります。彼には「真理のうちにとどまることの自由」という、未曾有のものの存在が啓示されることになるはずです。
おわりに
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」こうして、情欲の問題に次いで、青年アウグスティヌスがこれから向き合わなければならないであろう、もう一つの問題が浮かび上がってきました。それこそが上にも見たように、名誉欲の問題にほかなりません。彼はこの二つの問題がもたらす錯綜のうちに、どのように巻き込まれてゆくのでしょうか。次回はアウグスティヌスが29歳の時、「取って読め」の三年前の出来事に進むことにしたいと思います。
[名誉欲の問題というのは哲学する人間にとっても厄介なもので、①自分自身の言葉をしっかりと伝えたいという望みと、②その範囲を超えた、いわゆる「名誉欲」の二つのうち、①だけにとどまることができるならば健全といえますが、実際には、①のうちに②が流れ込んでくるのを押しとどめるのには、常に困難が伴うもののようです。アウグスティヌスの場合には果たしてどのようなことになるのか、これからの読解で見てゆくことにしたいと思います。読んでくださっている方の一週間が、穏やかなものであらんことを……!]