【哲学名言】断片から見た世界 アウグスティヌスの若き日の生活

アウグスティヌスの「学生生活」の内実とは

アウグスティヌスは17歳から19歳にかけての日々を故郷から少し離れたカルタゴで、弁論術を学びながら過ごします。学生として、いわば青春の盛りに向かって意気揚々と学びに励んでいたはずなのですが、この時期のことを振り返るアウグスティヌスの言葉は下に見るように、自分自身に対して非常に手厳しいものになっています。

「わたしは爪でひきかかれたようにはれあがり、膿をもってただれ、恐ろしい血膿を生じたのである。わたしの生活は、このようなものであった。わたしの神よ、これははたして生活であろうか。」

少し大げさすぎるようにも聞こえますが、青年だったアウグスティヌスが送っていた生活とは一体、どのようなものだったのでしょうか。

「ひたすらに悶々とする日々」:古代ローマの青年が送っていた、都会での暮らし

この時期の生活についてアウグスティヌスが語っていることは主に、次の二つの点に集約されます。まず第一に、これはこの年頃の青年には実によくあることなのではないかと思われますが、20歳を目前に控えた時期のアウグスティヌスにとっては、情欲の問題がますます無視できないものとして、その存在感を増し続けていました。

「わたしはカルタゴに来た。すると、わたしのまわり到るところに、恥ずべき情事の大釜がふつふつと音をたてていた。」当時のカルタゴはアウグスティヌスの故郷のタガステよりも都会だったので、さまざまな誘惑も大きかったことでしょう。当然、血気盛んな時期の彼にとっては、欲望を抑え続けることは容易であるはずもなく、ひたすらに悶々とした日々を過ごすことになります。『告白』の回想によると、彼は、男女入り混じった友人たちの輪に囲まれてパーティーや遊びに明け暮れる、いわゆる「華やかな人々」のグループには属さなかったようですが、当人自身の述懐によれば「優美で洗練されていることを切望していた」、つまり、それなりにおしゃれはしたようです。

そして第二に、このことと関連して、この時期のアウグスティヌスは危険な冒険や恋愛に憧れて、演劇を見ることにすっかり夢中になっていました。現代に当てはめて考えるならば、映画や小説、あるいは漫画やアニメに入れあげるといった所でしょうか。『告白』の言葉をたどっていると、私たちは、今から1500年以上前のローマ帝国で文化系の男子が送っていたであろう日々の生活の様子を、ありありと想像することができます。

「今となっては恥ずかしい、あの頃の生活」:アウグスティヌスは苦い思いと共に、自らの青春の日々を振り返る

それでは、こうした生活に対してアウグスティヌス本人が「これが果たして生活であろうか」との厳しい評価を下した理由は何だったのかといえば、それは「こうした生活が彼に対して、結局は『真実の生き方』に繋がるようなものをもたらすことがなかったから」ではないかと考えられます。

アウグスティヌスは情欲に囚われていた時期の自分の人間関係について、「友情の泉を汚れた肉欲で汚し、その輝きを肉欲の闇をもって曇らしていた」との言葉を残しています。具体的な記述はないのであくまでも推測の域を出ませんが、要するに、せっかく本当にいい友達になれそうな女の子に出会うこともあったのに、下心が出てしまったせいで全てを台無しにしてしまうことも少なからずあった、ということなのでしょう。その他の箇所からも伺える限り、アウグスティヌスという人は、踏み込む勇気を出すことができずにそのまま終わってしまうというよりは、勢いあまって大失態に陥るというパターンを繰り返すタイプの若者だったものと思われます(※)。

そして、演劇に関して言うならば、その時期の自分は「悲しむことを愛し、悲しみを与えるものがあることを願っていた」というアウグスティヌス自身の回想の言葉には、非常に鋭いものがあると言えるのではないか。当時の彼は、知恵を尽くして本当によい生き方を探るかわりに、刺激と感動を与えてくれるドラマを一つでも多く見ることの方に夢中になっていました。そこでは、静かではあるけれども確かな幸福の形を求めるのではなく、破滅でも何でもいいから、とにかく心を強く揺り動かしてくれるものだけが求められることになります。フィクションも、見る人の関わり方によっては必ずしも害にはなるわけではないような気もしますが、人間存在が「滅び去ることのカタルシス」をも享楽できてしまうという事実のうちには、改めて考えてみると、何か戦慄すべきものがあることも確かです。

「わたしの生活は、このようなものであった。わたしの神よ、これははたして生活であろうか。」本人の回想の言葉はこのように苦みに満ちていますが、こうしたことは、後世を生きている私たちにとっては励ましと慰めを与えてくれるものであるとも言えるかもしれません。人類の歴史に残るような、いわゆる「精神の偉人」たちであってもほぼ例外なく、私たちと同じような種類の過ちや、「今となっては、消え入りたくなってしまうほどに恥ずかしいあの日々」を経験しています。この意味からすると、偉人たちのうちには「過ちをほとんど犯したことのない人々」よりも、「過ちが余りにも多すぎたがために、どこかの時点で本格的な軌道修正を行うことを迫られた人々」の方が多いと考えることもできるのかもしれません。

おわりに

『告白』の道のりはまだ青年期の入り口に差しかかった辺りですが、若きアウグスティヌスの行く先には彼がこれから犯すことになる、数々の過ちが待ち受けています。ただし、間違いが重なるところには「立ち返ることの恵み」もまた満ちあふれずにはいないというのが、人間の生涯の行程を貫いて示される、大いなる逆説でもあるようです。私たちの読解も、その一つ一つの出来事をたどり直しつつ、彼がついに辿りついた「真実の生のかたち」を見定めることへと少しずつ向かってゆくことにしたいと思います。

[思想書としての『告白』には主に言って二つの側面があり、「決定的な回心を遂げた思索者アウグスティヌスによって、物事の『真実のあり方』についての考察が試みられる部分」と「同胞たちからの尊敬を受けていたアウグスティヌスが、かつての自らの過ちについて赤裸々に打ち明ける部分」の両方から成り立っています。今回の記事では、どちらかというと後者の側面に焦点を当てていますが、おそらくは当時の読者も、「ここに展開されているのは、なんと苛烈にして徹底的な思考なのか……」という戸惑いと、「ああ、この人も人間なのだな、というか、あまりにも人間すぎるのでは……」という別の意味での戸惑いの両方を体験しつつ、「真実の生のかたち」を追い求めてゆく上での励ましを受けていたものと思われます。『告白』読解も連載を開始してから三ヶ月目に入りましたが、読解を分かち合ってくださる方がいることは感謝の限りです。至らない所もあるかと思いますが、これからもよろしくお願いいたします。なお、(※)部分に関連して、実は今回の記事で取り上げた時期において、アウグスティヌスがすでに一人の女性との同棲生活を開始している可能性も高そうなのですが(!)、本人の述懐が曖昧模糊としているために、研究者たちも断定を下すまでには至っていません。この点については、明確な記述が表れてくる時点で正式に取り上げることにしたいと思います。]

 






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