主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、 サムエル記第一の19章です。それではよろしくどうぞ。
◆サムエル記第一 19章6節
サウルはヨナタンの言うことを聞き入れた。サウルは誓った。「主は生きておられる。あれは殺されることはない。」
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
サウル王は部下であったダビデに嫉妬していました。王である自分よりも、部下であるダビデの方が「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と人々の人気を得ていたからです。やがてその嫉妬は殺意に変わりました。が、サウルの息子でありダビデの親友でもあったヨナタンが、「ダビデは何も悪いことはしていないですし、むしろ父上にとって良いことばかりをしているじゃないですか。」といさめたので、サウルは「ダビデは殺さない」と誓って、矛を納めました。これでサウルとダビデの関係は丸く収まり・・・
・・・ませんでした。次の戦でダビデがまた戦功をあげると、サウルの嫉妬と殺意はまた燃え上がり、ダビデを殺そうとあの手この手で執拗に追い回すようになりました。
どうしてサウルは再びダビデを殺そうとしたのでしょう。「殺さない」と誓ったのに。人の心というのは自分でもなかなか制御できないのかもしれません。きっとサウルも頭ではヨナタンの言う通り「ダビデは悪くないし、自分のためにこんなにも頑張ってくれている」とわかっていたことでしょう。しかし、人の心というのは理性とか道理とかで制御できるものではありません。頭ではダビデを認めていても、心がダビデを憎む、という状態に陥ったのだと思います。
聖書にはサウルに「悪い霊が臨んだ」と書いてあります。ではサウルは何かに取り憑かれてしまって、正気を保てずにダビデを殺そうとしたのでしょうか。たぶん少なくとも世間一般でイメージされる、いわゆる「ものつき」とは違うのではないかと思います。
悪い霊が臨むのは、なにもサウルに対してだけではありません。あらゆる人に、これを書いている僕にも、読んでいるあなたにも悪い霊は臨んでいます。人は、その霊の影響を受けないように心を守らなくてはなりません。しかしそれを守るのは理性でしょうか、道理でしょうか。違います。それらでは心は制御できません。まして悪い霊を制御することはできません。それを制御できるのは神様だけであり、僕たちにできることは祈ることです。サウルは信仰の薄い王でした。神様の力を頼らず、自分の力で、時に現代人にとっては合理的とも見えるやり方で、あらゆることをなそうとしました。しかし結局は国どころか、自分の心さえ制御することができずに、非業の死を遂げることになりました。
自分の心を守れるのは、理性でも道理でもなく祈りです。だからこそ、クリスチャンが日々祈る「主の祈り」にも「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」とあるんです。祈りなしには、人はいとも簡単に悪い霊に影響されて、道を外れてしまうんです。その影響は、自分で立てた誓いさえ自分で守れないほどに強いものです。誓いを貫くために必要なのは、強い意思や道義心よりも先に、まず祈りです。
とはいえ、「じゃあ毎日祈ります!」という誓いさえ、祈りなしには守れないこのジレンマ。だからこそきっとイエス様は「誓ってはいけない」と言ったのだと思います。どんなに意志の強い人でも、神の力なしに自分の力だけでそれを貫くことはできないのだから、と。
それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。
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