わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
ヨハネ15章1節(参考聖書箇所同書15章1?17節)
この言葉に続いて「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」(四節))との主の言葉に出会います。ぶどうの木である主につながれ、その根本には父なる神が働いていてくださるので、わたしたちは主の枝として実りを約束されます。しかし、同時に主御自身がわたしたちにつながっていてくださいます。そうでなければ、わたしたちは主の枝であることはできません。
もしわたしたちが自分の側からだけ主につながっているのであれば、なるベく都合のよいつながり方を探すでしょうし、意に反するつながり方でもしていようものなら、不平たらたらになりかねません。枝としてのわたしたちは、枯枝であったり、実など結びそうもない小枝かもしれないのです。
主がつながっていてくださるので、主の枝とされている現実を見るべきです。つまり信仰者としては、お世辞にも立派とはいえないのに、曲がりなりにでも教会につながっているという事実であります。そして教会につながっていること自体、枝として実を結んでいるというべきであります。それこそ、主がわたしたちにつながっていてくださる結果です。