人間が自分よりも後の時代にまで記念として残せるものとして、最大のものは何だろうか。今回の記事ではこの点に関して日本の近代を代表する思想家である、内村鑑三の言葉を聞いてみることにしましょう。
「それならば最大遺物とは何であるか。わたしが考えてみますに人間が後世に遺すことのできる、そうしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい高尚な生涯であると思います。これが本当の遺物なのではないかと思う。」
内村鑑三
その名も『後世への最大遺物』と題されているこの書物の言葉は1894年、33歳の内村が箱根で行われた夏期学校で若い男女たちに向かって語りかけた講演を、活字にしたものです。彼がこの講演で語りたかった「勇ましい高尚な生涯」とはいったい、どのような生き方のことを言うのでしょうか。そのイメージを掴むために、まず最初に、内村自身が挙げている歴史上の例を見てみることにしましょう。
「トーマス・カーライルよ、お前は最高だ……!」『フランス革命史』をめぐるエピソード
内村が挙げているのは19世紀イギリスの歴史家であり、評論家でもあるトーマス・カーライルの、『フランス革命史』にまつわるエピソードです。その出来事はカーライルが何十年もかけて、彼の念願のこの本をついに書き上げたところで起こりました。
紙幅の都合上、細かなところは飛ばすことにして結論だけを述べると、彼が魂を削って書き上げた『フランス革命史』の原稿は友人から友人の手に渡っていったあげく、手違いから、すべて燃やされて(!)しまいました。家政婦のおばさんが、朝、カーライルの友人の、そのまた友人の部屋の机の上で見つけた原稿を、「まあ、これは燃料にちょうどいいわ」と思ってストーブに入れて、灰にしてしまったのです。よく燃えただけあって、おそらく、部屋の中はそれなりに暖かくなったものと思われますが、カーライルが苦心に苦心を重ねた大作は、すべて燃やされてしまいました。ほんの三分か、四分ほどの間のことだったといいます。
すごいのはこの後です。すっかり茫然自失してしまって、何もかもやる気が起きない十日ほどの期間を過ごしたのち(無理もない話です)、カーライルは自分自身に向かって次のような意味のことを言い聞かせて、ふたたび執筆に取りかかりました。
「トーマス・カーライルよ、お前は最高だ。お前はなぜ最高かといえば、それはお前があの『フランス革命史』をもう書いたからではなく、これからまた書くからである。すべてが燃え尽きた後でゼロからもう一度書き直すなんて、お前はなんて最高なやつなんだ……!」こうして書き上げられた『フランス革命史』はイギリス人の書いた歴史書のうちでも最高のものの一つとして、後世に残ることになりました。耳にするだけで痛ましい出来事ではありますが、労作が燃えてしまっても決して全てを投げ出しはしなかったカーライルのファイティング・スピリットには、ただ感服するばかりです。
「勇ましい高尚な生涯」とは何か
さて、この例から、内村は次のような結論を引き出します。本当にすごいのは、彼の書いた『フランス革命史』という本ではない。いや、本の方ももちろん、すごいことはすごいのではあるが、何よりも、すべてが文字通り燃え尽きてしまったのちにも諦めることのなかったカーライルの生きざまこそが、本当にすごいのである。
人生というのはもちろん、全てがうまくゆくわけではない。時には、うおお、なぜなんだ、もう何にもやる気が出ないよちくしょうとしか思えないような出来事も起こるかもしれないし、いやもうほんとに全部終わったっていうか、もはやすべてが鬱でしかないよ、生きてなきゃだめですかといったような暗闇が続くようなことも、あるかもしれない。しかし、世の中にはそういう状況の中でも決して希望を捨てることをせず、信念や信仰を保ち続けて、最後まで立派にやり抜いた人々がいる。先人たちの「勇ましい高尚な生涯」は、今も変わることなく輝き続けているのである。涙をふけ、迷いを捨てよ、灰の中から立ち上がれ。たとえ何があろうとも投げ出すことなく闘いつづけるならば、いつかは必ずやすべてが益として働いて、これ以上ないくらいに最高な結末がやって来るはずだ……!
おわりに
内村自身の生きた人生が苦難の連続以外の何物でもなかったことを考えるとき、彼は本当はこの講演を通して、自分自身の人生について語り続けていたのではないかとの印象を抱く読者は、少なくないのではないかと思います。また、今回の記事では触れることができませんでしたが、「勇ましい高尚な生涯」とは才能や機会に恵まれた特別な人のものではなく、誰にでも実践可能な生き方であると内村が考えていたことも、この言葉について論じる上では見落とせない論点であるといえます。語り尽くせなかったことも多々あるので、興味のある方はぜひ、『後世への最大遺物』を手にとってみてください。