人間の中に、神が共におられる真実が「見えるようになる」
2017年3月26日 四旬節第四主日
(典礼歴A年に合わせ3年前の説教の再録)
あなたは人の子を信じるか
ヨハネ9:1~41
生まれつき目の見えない人がいるのを見かけ、弟子たちが、「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と尋ねました(ヨハネ9:2)。
しかし、イエスは言われます。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(3節)
この「神の業」とはいったい何でしょうか。ちょっと考えると、見えるようになることだとも考えられます。でも、どうも違うようです。
「神の業」とは、端的に言えば、人間の創造に関わる業です。
神である主は、土の塵(ちり)で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。(創世記2:7)
土の塵にすぎない者の中に神がご自分のいのちを吹き入れて一緒に生きる者となったことが「神の業」です。イエスさまは「この真実が彼に現れるためだ」と言っておられるのです。
イエスによって肉眼の目が見えるようになったというのは「入り口」です。ゴールではありません。
今日の物語は、生まれつき目が見えなかった者の目を開いてくださったお方が誰なのか、そのお方に出会っていく物語です。
目が見えるようになった時に人々が、「その人はどこにいるのか」と尋ねると、彼は「知りません」と答えています(12節)。ここがスタートです。目を開いてくださったそのお方がどこにいるのか、つまり自分にとって何者であり、そのお方が自分との関わりにおいてどこにいるのかを「知らない」ということです。
その後、ファリサイ派の人々から「お前はあの人をどう思うのか」と問われた時、「預言者です」と答えます(17節)。考えが深まってきたのです。
そして、さらなる追求の末に彼は、自分の目を開けてくれたのは「神のもとから来られた方」だと宣言します(33節)。その結果、彼は外に追い出されました。それはユダヤ教から破門されるという意味です。そしてそれは、自分の命を危険にさらすという出来事でした。
イエスは、彼が外に追い出されたことをお聞きになり、「彼と出会うと」と書かれています(35節)。この「出会う」という言葉は、もともとのギリシア語では「見つける」「発見する」という言葉です。ユダヤ教から追い出され、はじき出されたこの人を、イエスのほうが見つけだして出会ったのです。
そして、「あなたは人の子を信じるか」とイエスに尋ねられると、「主よ、それはどなたですか。その方を信じたいのですが」と尋ね返します。イエスが、「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」と言われると、彼は「主よ、信じます」と言ってひざまずきました(35~38節)。
ファリサイ派の人々は、生まれつき目の見えなかった人を、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言っています(34節)。しかし、イエスの眼差しはまったく違っていました。イエスは、人間の罪ではなく、人間の中には神さまのいのちがあるという真実、「神の業」を見てくださる方でした。
この人は、そのお方の眼差しといのちを「信じた」のです。そして、ひざまずいて礼拝した時、イエスと深く結ばれ、きっと一緒の向きで生きるいのちになったのです。これが今日の福音です。
私たちは今日、見えているのでしょうか。
私たちの中には罪があります。でも、それにもかかわらず、神さまがいのちの息を吹き入れてくださった私たちは、神さまが一緒に生きてくださっているいのちです。そのことに目を向けて生きることが、「見えるようになる」ということです。
しかし、そのことを見ないで、「あの人のあそこが」、「あの人のあの態度が」、「あの人のあの考え方が」と言っているなら、私たちはいのちではなく「土の塵」に立つ者です。そのとき私たちは、人間の滅びある塵に立って、相手の外側にすぎない塵を指摘し、塵から塵へ、滅びから滅びへの、滅びに向かう堂々巡りをしている者になります。
一方、土の塵にすぎない者の中にいてくださる「神さまのいのち」に立って、相手の中に欠点や過ちや罪や悪意があっても、その最も奥深くに「神さまが共にいてくださる真実」に目を向けるなら、永遠から永遠、栄光から栄光、いのちからいのちへの、いのちに向かう交わりを生きる者になります。
そういうふうに生きるようにと人に伝え、働くことが、イエスが行われた「神の業」です。
「私たちは、私をお遣わしになった方の業を、昼の間に行わねばならない」(4節)
そう言われます。だから私たちも、この世に生きている間、人の中におられる神のいのちに目を向けて生きる「神の業」を行わなければならないのだと思います。