月をさす指を見ている 向井真人 【宗教リテラシー向上委員会】

仏の説いた教えを記したものを『経』という。基本的に経の始まりの文言とは「如是我聞(にょーぜーがーもん)」である。「仏の教えをこのように私は聞きました」という伝聞の体裁を取っているのだ。仏教の始まりとなった人、お釈迦さま。彼が物理的な肉体の寿命を迎えた後に、二度結集と呼ばれる経の収集と編集会議が弟子たちの間で行われた。「私はこのように聞いた」と状況、経緯や内容などを弟子たちで確認、検討をしたのだ。

そこからさまざまな時代や地域を移るにつれて経の内容は翻訳されたり、新しく生まれたり、経の意味そのものも変化していった。日本で伝統仏教と言われる宗派の開祖やその教えを継ぐ祖師たちが記した文章のことを、経と表現する場合もある。かなり乱暴な言い方をするが、それらもすべて経であると解釈できなくはないと考えられている。その集大成が現在私たちの見ることのできる経なのだ。

以上を読めば、仏教は節操がないと思われるかもしれない。揺るぎない信念や主張はないのかと問われるだろうか。「このように私は聞きました」を隣の人へ隣の人へと伝言ゲームしていった結果、まったく違うものになっている可能性を考えないのかと。確かにどのような視点を持つかによって、本物か偽物かと判断することはできる。仏説の仏とは仏教のはじまりとなった人であるお釈迦さまだけであり、その言葉のみを経としたら、初期の物だけが経だとなるだろう。しかし、そもそも伝聞であるからして、初期の物も本当に仏説かどうか疑惑があることはいなめない。つまり、どの段階のものならば経として正しい、ということは言えそうにないことが分かる。

仏教徒は、ここを織り込み済みで『経』は経なのだと信じている。やみくもに信じているわけではない。ぐるぐると歩き続けている動きの中にいると言っていいだろう。経とは仏説である、しかし仏や時代性や著者にも種々さまざまであるからして何が経だろうか、この経はどのように換骨奪胎された物なのだろうか、経とは私にとって何であろうか、と脱皮し続けているのが仏教徒のあり方である。それはなぜか。「執着から離れる」が仏教の根底に横たわっているからだ。仏教と向かい合う時、お釈迦さまの言葉でさえ鵜呑みにしないことが求められる。実践を続け、問いを閉じないでいることが仏教徒の基本姿勢なのだ。だからこそ経を読み、坐禅や写経をしたり、念仏や題目を申し上げる。

「月をさす指」というたとえ話がある。「私はあなたに月を指でさし示して教えようとしている。あなたは何故指を見て、月を見ないのか(我以指指月令汝知之。汝何看指而不視月。『大智度論初品中放光釋論之餘卷第九』より)」。ここで言う月とは真理、悟り、世の法のこと。ここで言う指とは『経』などを示す。本当に大事なのは真理であって経典そのものではない、文字面ではない。月をさす指は指であって、指自体を研究することはあっても、月が本望だという前提が大事なのだ。そうは言っても指をしみじみ見てしまう時もあるだろう。そんな時、月すなわち物事のあるがままの姿を正しく見えていない至らない私があぶり出される。愚者による賢さの自己申告ほど愚かなものはない。この愚かさの自覚こそすべての出発点としたいのだ。今日も私は指を見ている。

向井真人(臨済宗陽岳寺住職)
 むかい・まひと 1985年東京都生まれ。大学卒業後、鎌倉にある臨済宗円覚寺の専門道場に掛搭。2010年より現職。2015年より毎年、お寺や仏教をテーマにしたボードゲームを製作。『檀家-DANKA-』『浄土双六ペーパークラフト』ほか多数。

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