【シリーズ・「2世」の呻き】 CLCからしだね書店主催オンライントーク会 〝虐待〟か〝継承〟か 「2世問題」と教会

 安倍晋三元首相の銃撃事件から1年。思わぬ形で注目を浴びる形となった「宗教2世」問題を、自らの問題として考えるオンラインイベントが5月にCLCからしだね書店で催された。題して「『宗教2世』と『クリスチャン家庭のこども』」。クリスチャンのもとに生まれ育った2世や、親として子育てに携わった現役クリスチャンの話に耳を傾ける試み。正解を求めるのではなく、「子どもたちが家庭や教会の中で安心して育つためのヒントを見つけたい」と願う〝店長親子〟と登壇者との対話から抜粋して紹介する(「CLCからしだね書店便り」5~7月号より)。

■店長(2世) CLCからしだね書店店長
■A(4世) 明治初期から続くクリスチャン家系
■B(3世) 店長の長男
■C(1世) 大学で初めて教会に
■D(2世) 3世の親

〝あるべきクリスチャン像〟に苦悩
「聖書にこう書いてあるから」では心閉ざす

店長 統一教会から始まって、今ものすごく叩かれているのがエホバの証人ですね。私たちクリスチャンもまた、これを機に、教会の中、家庭の中で、子どもたちに対してやってきたことの中に、反省したり評価したり、整理すべきことがあるのではないかとも思います。私は2世の立場でもあり、親から受けた教育の一部をそのまま子どもに受け継いだみたいなところもあって、3世の目にどんなふうに映っていたのか、知りたいような申し訳ないような気持ちです。

 宗教2世問題についてですが、本当に考えるべきは1世の人たちなのかなと思います。1世がクリスチャンになった時の強烈な体験とか、自分の中の強烈な変化を実感しているがゆえに、その実感を子どもたちに知ってほしい、つないでいきたいという思いがものすごく強いように感じます。でも2世世代にその強烈さを求めてもピンとこないです。1世の2世ヘのアプローチに、強制や他の選択肢を許さない束縛がなかったか? 自分の意志で選択して信仰者となった1世が、最初から選択の幅が小さかった2世にどういう伝え方をするのか?

 体罰も、熱烈な信仰観みたいなものもない中で育った子は、その代わりに何を感じているか? 私は教会学校教師もしていたのですが、親が不機嫌になるからとか、周りが悲しむからとかいう理由で、大人の言うことを聞いている子どもは多かったように思います。親は、子どもの年齡が小さければ小さいほど、自分の存在を揺るがす絶対的な存在になります。その存在を悲しませたくないので、子どもなりの優しさで親の期待に沿うことを言ってしまう。そういう子を見てきたし、自分もそうだったと思います。体罰は明らかにダメです。でも、それがなければ解決するのかというと、そうでもない。大人が明らかにおかしいことをしていた方が、はっきりして分かりやすい。世論も味方につけやすいです。でもソフトに、優しさや愛、悲しい、という言葉でじわじわ圧をかけてくる方が、分かりにくくて反発しにくい。複雜ですね。

店長 一言一言が、身にこたえますね(笑)。体罰で子どもを支配して言うことをきかせようとするのか、「誰かが悲しむ」とか、「あなたのためを思って」という優しい言葉で子どもを縛っていくかの違い。Bさんの祖父でもある私の父は、いわゆる子ども時代に戦中の体罰教育も受けた「オレは男だ! 親だ! 家長だ!」的な考えを、聖書の言葉と単純に絡み合わせて解釈していたクリスチャンだったと思うのですが、自分の感情に任せて子どもを怒っていました。私は子どもながらに、「その聖書解釈は違うやろ!」「それでもクリスチャンか!」と父を裁いていました。ですから信仰を持つということと親が正しいということはまったく別のことと思って大きくなりました。親への反発心はあっても、親を喜ばそうという気持ちは一切ありませんでした。

 教会は一つの家族でもありますよね。そして、教会の中で、年長者、長老に従うべきというのが、言わず語らずあります。魅力あるクリスチャンの先輩に憧れみたいなものをもって、「ああいうふうになりたいな」と思うのは良いですが、教会の中にはパターナリズム(家父長制的な権威主義)が生じやすいという感じがします。同世代のクリスチャンの中には、「子どもに自由に選択させたい」と言いつつ、「うちの子、教会に行ってくれない」とこぼす友人もいます。「だからと言って、力づくで行けというのも違うしな」と、ぐるぐる悩む。「クリスチャンになったらこうすべき」と思ってやっていたことに、今では後悔している1世の友人もいます。

 やっぱり良くも悪くも日本の文化的素地が刷り込まれているのだろうと思います。家に縛られる考え方とか、家訓があって一方的に教え込まれるとか、日本独特の「家」的なもの。私は日本を離れて外国で過ごした時期、外国の教会の方が息がしやすかったです。信仰をもっていれば解放される、自由にされると教えられていましたが、日本の方がいろいろなものにがんじがらめの信仰だったように思います。教会の中でいろいろな人の顏を見ながら、あるべきクリスチャン像を目指していた。外国にいた時は、クリスチャンの自由な姿、人を縛り付けるものがなく、自分が幸せになる、人を幸せな気持ちにさせるということに、心を配っている姿を見て、自由さを感じ、楽でした。日本で育った人が持つものの考え方の傾向や価値観、育ちの中での個人的価値観が、宗教観や信仰にも落とし込まれ、親は、それも含めて子ともたちに「これこそキリスト教」「これこそ信仰」として伝えているかもしれませんね。

店長 宗教2世問題や、クリスチャン家庭の子どもの育ちの問題を考える時に、大事な視点かもしれませんね。

Image by Shannon Lawford from Pixabay

■すぐに「答え」を提示しがちな1世

 私は今、ある女性と2人で読書会をして学んでいます。彼女は、高校生の時、初めて行った教会でクリスチャンになりました。けれども、教会の中の上下関係や支配的な空気に傷つき、その教会に行くのをやめて、私たちの教会に来ました。その教会では、たくさんの奉仕を「喜びをもってする」ということを教えられ、最初はクリスチャンになったことがうれしくてやっていたけれど、だんだん自分の中に喜びがなくなっていくことに気づいたといいます。「クリスチャンなら喜んで奉仕するのは当たり前」「怒ることは罪」と教えられて、だんだん自分の中から感情がなくなっていき、彼女は、「私の気持ちって何?」「自分の気持ちを持つことはダメなこと?」と思うようになったそうです。「神様に喜ばれる自分・こうしなきゃいけない自分・こう思わなきゃいけない自分」と、「本当の自分」とが乖離していき、それがすごくつらかったと。でも今は、読書会の本を通して「イエスさまも怒ったし、泣いたし、豊かな感情があったんだ。自分も感情をもっていいんだ。怒ってもいいんだ」と思うようになったとのことです。以前は「嫌だな」と思っても笑顔で「そうですね」と言っていたことを、ちゃんと「嫌だ」と言えるようになってきたそうです。

店長 よかったですね。

 これは2世問題にも言えることで、答えをすぐに出さなくてもいいものなのに、1世が「これが答えだ」と言ってしまう。そして子どもは、それが自分の本心なのかどうかも分からないまま、言われたことに、「うん」と言ってしまう。「本当に神様はそう言っているのかな?」「聖書は本当にそう言っているのかな?」と考えることより、ずっと教会の中で積み上げられてきた「正しい」ことを、「選択」したり「答え」にしたりするのが、良いことのようになってしまっているように思います。

 子どもが「個人として、ひとりの人格として尊重される」ことより、「家」とか「滅私奉公」的な考え方に支配されるのを、本当に神様は望まれているんだろうかって、僕も常々疑問に思っています。キリスト教特有の思考の構造があるとすれば、「すべき」の背景に「神様がそう言ってるから」というのがあると思うんですね。

例えば親に「こうしなあかん」と言われて、「なんでそうしな、あかんの?」と聞いた時に、「それは聖書にこう書いてあるから」とか「神様がそう言ってはるから」というふうに言われてしまうと、そこでピシャッと扉が閉まる。子どもは「これ以上、大人とは話が通じません」と思うんですよね。「やっぱり自分の考えてることって聞いてもらえヘんねんな」「大人に、お前はダメって思われてしまうんやな」と考えてしまう。大人の方が言語能力が高いので、子どもは言い負かされる。我慢するしかない。

店長 耳が痛すぎる! すみませんっ!

■「成果主義」を超えた継承の形

店長 少子高齢化で、日本の人口も、宗教に関わる人の人口もどんどん減少していく今、クリスチャンの家庭やキリスト教会の中で、「信仰継承」の取り組みが必要だと言われています。教会は、コロナ以降、すごく変わったと思うんです。今まで「日曜日は主の日です。教会に行きましょう」と言っていたのに、行けなくなってしまいました。ネット配信の参加ができるようになり、自分でチョイスするという感じになりましたよね。自分の教会の礼拝に出席しなくても、北海道でも沖縄でも、外国でも、「この牧師さんの話聞きたいわ」というところにアクセスできて、自分の所属教会でなくても、礼拝に参加することはできます。

そういう風潮の中で、教会を維持するためにも、若い世代に向けての「継承」が必要だと。でも私はそれに少し違和感を持っていて。というのも、信仰って「継承」するものなのか? と思ってしまうんです。教会は大事だと思いますし、教会を守っていく責任も感じます。ただ、継承したい側の焦りと、「継承してね」と言われる側のしんどさみたいなものに、「優しい善意を断り切れない」みたいなものがまぎれてこないかと。

 私は信仰を持った後で就職して、所属教会から結構離れたところに行ったんですね。職場があって、寮生活があって、その間に教会があって、寮の先輩にも教会に行っている人がいて、すごく恵まれていました。でもその時に、元の教会の人に「あなたが行っている教会は、信仰の特性が違う教会だから、こっちの教会に行くべき」と、強い口調で言われました。でも私はそれには従いませんでした。関西に帰ってきたこともあって、今に至ります。私たちが「教会の発展」というところに思考が向かってしまうのは、今の時代でもあるのだな思います。教会は、年長者も子どもも同じ神様の子どもとしてつながりあっている共同体だと思うので、年長者から若い世代に「伝えていく」というニュアンスは、ちょっと違うように思います。

店長 私は高度成長期とともに成長した世代ですが、当時の教会が、「教勢」「教勢」とすごく言っていたのを覚えています。「礼拝に何人来たか」とか「受洗者が何人」とか。「成果が出ている教会は信仰もすばらしい。受洗者が少ない教会は牧師と教会員の信仰が足りない」と。空気としてそういうのがあったし、実際あからさまにそんなことを言う人もいたと聞いています。

牧師の中にもランクのようなものがあって、最上ランクは、教会を建てて、自分の子どもたちに信仰を「継承」して、その子どもたちが牧師になったり宣教師になったりした人で、子どもがクリスチャンにならなかった牧師は、ものすごく肩身が狭い、みたいな。今の宗教2世問題に通じるところがあります。親も、どこかで自分の立場というものを保っていかなければいけないし、そんな空気の中で、子どもヘのプレッシャーがあって、それで心を病んでいった人たちや、教会から離れていった人たちがいると思います。世の中の動きに連動して、そういう「成果主義」は影を潜めてきたようには思いますが、そのころの名残のような考え方は、今も根強くあると思います。

 教会は、世の中の動きから10年ぐらい遅れているような気がしますけど……。

店長 そうかもしれませんね。

*全文は「CLCからしだね書店便り」(https://bit.ly/3NSAIBO)5~7月号に掲載。問い合わせは同店(Tel 075-574-1001)まで。

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