宗教リテラシーとは何か(2) 川島堅二 【宗教リテラシー向上委員会】

宗教リテラシーとは「宗教と適切に関わるために必要な知識と能力」であると、前回(3月1日付本欄)書いた。そして、このリテラシーには自覚的に区別されるべき三つの対象がある。第一に、すべての人を対象とするもの、第二に、特に宗教指導者に求められるもの、第三に宗教研究者に求められるもの。今回は一番目の、すべての人に求められる宗教リテラシーについて記す。

日本は複数の宗教が共存する文化、社会である。私が居住する仙台市の町内だけを見ても神社あり、お寺あり、キリスト教会あり、さらには天理教や立正佼成会、創価学会など新宗教の施設も身近である。また、同じ家の中に仏壇と神棚がある家庭も珍しくない。このような社会環境によって、誰に教わることもなしに、特に仏教や神社神道についてはリテラシーを自然と身につけている人が多い。

私の職場であるキリスト教学校の裏手の小高い丘に、愛宕神社という歴史のある神社がある。その境内を散歩すると、若い学生たちと時々出くわす。見ていると、鳥居の前で一礼している学生たちがけっこう普通にいて驚かされる。いったい彼らはどこでこのようなマナーを身につけたのだろう。学校のはずはないので、おそらく小さい子どものころから家族で、あるいは友人たちと初詣などに行った際、見よう見まねで身につけたのだろうと想像する。葬儀の席などは、仏教リテラシーを学ぶ場となっていることだろう。

しかし、厳格な一神教、特にユダヤ教やイスラム教については、自然にそのようなリテラシーを学ぶ環境が日本にはない。18歳で神学校に入学し、25歳で伝道師になり、書物や特に聖書、そして礼拝の説教でユダヤ教や「ユダヤ人」について幾度も耳にし、また自ら語ってきたが、実際のユダヤ教徒や「ユダヤ人」に直接会ったのは30代になってイスラエルへ旅行した時が初めてだった。

Tom GordonによるPixabayからの画像

イスラム教についても状況は同じ。すでに神学校の「宗教学」の講義でイスラム教について一通り学び、『コーラン』も読んでいたが、日本で社会人生活をしているイスラム教徒と接したのは2011年、1年間の研究休暇の際、「宗教多元主義」が研究テーマの一つであったので、その実践として日本ムスリム協会の準会員となり、新宿にあるモスクでの礼拝と学びの会に月1で参加した時が初めてだった。

礼拝は見学だけの予定だったが、「ムスリムとキリスト教徒は同じ経典の民で信じる神さまは同じだから、よかったら一緒に礼拝しよう」と勧められるままに、礼拝前の「ウドゥー」(口をすすぎ、手足を洗う)の仕方を教わり、礼拝にも参列するようになった。山梨県の山中にあるムスリムの墓地(火葬を忌避するので土葬が可能な墓地)の清掃ボランティアや1泊の修養会にも参加して交流を深める中で、書物では知ることのなかったイスラム教のリテラシーを知ることになる。

例えば教科書的には、最初のイスラム教徒は預言者ムハンマドの妻ハディージャであると教わる。しかし、ある時、日本ムスリム協会の書棚にあった歴代の預言者たちの一覧に、ムハンマド、イーサー(主イエスのこと)、ダーウード(ダビデ)、ムーサ―(モーセ)、イブラーヒーム(アブラハム)、ヌーフ(ノア)と共にアーダム(アダム)とあった。アダムはイコール人間だから、「人間はムスリムとして生まれてくる」ということになる。驚きと共にこれまで分からなかったムスリム特有の心情を、初めて理解できた気がした。(つづく)

【宗教リテラシー向上委員会】 宗教リテラシーとは何か(1) 川島堅二 2023年3月1日

 

川島堅二(東北学院大学教授)
かわしま・けんじ 1958年東京生まれ。東京神学大学、東京大学大学院、ドイツ・キール大学で神学、宗教学を学ぶ。博士(文学)、日本基督教団正教師。10年間の牧会生活を経て、恵泉女学園大学教授・学長・法人理事、農村伝道神学校教師などを歴任。

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