宗教リテラシーとは何か(1) 川島堅二 【宗教リテラシー向上委員会】

「宗教リテラシー向上委員会」というこの連載が始まったのは、今から約6年前、「キリスト新聞」が紙面のデザインを一新した2017年だった。当時は「宗教リテラシー」という言葉自体あまり知られていなかったが、いまや宗教界のみならず、一般社会においても耳にするようになった。「キリスト新聞」の先見の明である。

昨年7月の安倍晋三元首相銃撃事件を受けて、NHKの宗教番組「こころの時代」が緊急企画として「徹底討論!問われる宗教と〝カルト〟」を昨年10月に放送した。視聴者から大きな反響があり、とりわけ「宗教リテラシー」についてもっと具体的に知りたいという声が多かったという。

この討論の結論的な部分で、長年統一協会を研究してきた宗教社会学者の櫻井義秀氏(北海道大学大学院教授)は「宗教リテラシーがある程度普及していけば、カルト問題は縮小していく」と述べ、また神学者の小原克博氏(同志社同大学教授)も「宗教リテラシーをひろげていくことによって、カルト問題が解決する可能性がある」と述べているから、そうした反響は当然であろう。知り合いのキリスト教学校で宗教(聖書)を担当する教員からも最近、授業を「宗教リテラシー」の観点から作り直しているという声も聞いている。

キリスト教学校における宗教(聖書)の授業が、キリスト教の伝道(信仰への導入)を直接の目的とするものでないことは自明で、信仰ではなく、文化や歴史における宗教(キリスト教)の影響力などを強調して、一般教養科目の枠内で聖書がもつ意義を伝えることが重要と考えられて久しい。しかし、今や「宗教リテラシー」という新たなミッションが自覚されつつあると言ってよいのではないだろうか。

しかしながらカタカナ表記であることが象徴しているように、「リテラシー」は日本語としては一語に置き換えられない多義的な言葉だ。辞書には「読み書きの能力、またはある分野に関する知識と能力」とある(『日本国語大辞典』)。ここからすると「宗教リテラシー」とは「宗教に関する知識と能力」ということになるが、これでは何の説明にもなっていない。今日的な状況を加味するならば、「宗教と適切に関わるために必要な知識と能力」とでも言えるだろうか。

「適切に関わる」ということで特に「倫理的な適切さ」が意味されている。宗教がカルト化して人権を侵すことを予防する、あるいは逆に根拠のない先入観や偏見で信者を差別し傷つけることを予防するための倫理的な能力とも言えるだろう。

ただ宗教そのものが多様であるのに加え、宗教への関わり方も多様なので、一口に「宗教リテラシー」と言ってもその内容は一色ではない。この連載では、ユダヤ教、キリスト教、仏教、イスラム教に信者や指導者(教職)としてコミットしている立場、あるいは研究者として宗教の外からこれを観察研究している立場など、多様な側面から「宗教との適切な付き合い方」について提言がなされてきた。読者がそこから自分に必要な知見を自由に汲み取ってもらえればよいのだが、私は「宗教リテラシー」には自覚的に区別されるべき三つの方向性があると考えている。すなわち、第一に、信者であるかどうかにかかわらず、すべての人に求められる宗教についてのリテラシーであり、第二に、特に宗教指導者に求められるリテラシー、そして第三に宗教研究者に求められるリテラシーである。(つづく)

川島堅二(東北学院大学教授)
かわしま・けんじ 1958年東京生まれ。東京神学大学、東京大学大学院、ドイツ・キール大学で神学、宗教学を学ぶ。博士(文学)、日本基督教団正教師。10年間の牧会生活を経て、恵泉女学園大学教授・学長・法人理事、農村伝道神学校教師などを歴任。

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