【夕暮れに、なお光あり】 落ち葉を拾うな! 上林順一郎

秋の深まりとともに木々は色づき、枯れ葉の舞い落ちる季節となりました。落ち葉と言えば四国の教会にいた時、教会の庭に 10本ほどの桜の木があり、春になると見事な花を咲かせ、道行く人の目を楽しませてくれました。しかし、秋になると葉は茶色になり、次々と散って路上に溜まります。風が吹くと近隣の家の前まで落ち葉が広がり、近所迷惑になると毎朝路上の落ち葉を掃いていました。

ある日、朝から落ち葉を掃いていたところ、1人の高齢の方が教会の玄関の前で「落ち葉を拾うな!」と大声を出しているのが聞こえました。落ち葉を拾い集めていることに文句をつけられているのかと近づくと、玄関前の看板に書かれている説教題を見ながら大声を出していたのです。そこに書かれていたのは「落ち穂を拾うな!」という説教題だったのですが、「落ち葉を拾うな!」と間違って読んでいたのです。

「落ち穂を拾う」と言えば、ミレーの「落ち穂拾い」の絵が有名です。旧約聖書のルツ記を基にしたものですが、その背後には「あなたがたが土地の実りの刈り入れをするとき、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。刈り入れの落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい人や寄留者のために残しなさい。私は主、あなたがたの神である」(レビ記23章22節)との聖書の言葉があります。そこでは収穫の時に地に落ちた穂を拾ってはならないと言われているだけでなく、「貧しい人や寄留者のために残しておきなさい」と、「残しておく」ことが命じられているのです。落ち穂は「神のもの」であり、貧しい隣人たちや寄留者たちのものとして「分かち合う」ものだったのです。

岸田文雄首相の就任直後の政策は「成長と分配」でした。本音は「成長なくして分配なし」でしょう。成長とは土地の実りを隅々まで刈り尽くし、落ち穂も残らず集めるという「収奪」のことです。そこには「支配者による分配」はあっても、人々の「分かち合い」は生まれてこないのです。

朝の散歩の途中、茶色に変色した落ち葉を踏みながら星野富弘さんの詩を思い出しました。「木にある時は枝にゆだね 枝を離れれば風にまかせ 地に落ちれば土と眠る 神様にゆだねた人生なら 木の葉のように 一番美しくなって 散れるだろう」

隠退牧師となり、「濡れ落ち葉」などと陰口を言われるこの頃ですが、万一、説教に呼ばれることがあれば題は「落ち葉を拾うな!」といたしましょう。落ち葉は「一番美しくなって土と眠っている」のです。どうぞそのままに。

 

かんばやし・じゅんいちろう 1940年、大阪生まれ。同志社大学神学部卒業。日本基督教団早稲田教会、浪花教会、吾妻教会、松山教会、江古田教会の牧師を歴任。著書に『なろうとして、なれない時』(現代社会思想社)、『引き算で生きてみませんか』(YMCA出版)、『人生いつも迷い道』『ふり返れば、そこにイエス』(コイノニア社)、『なみだ流したその後で』(キリスト新聞社)、共著に『心に残るE話』(日本キリスト教団出版局)、『教会では聞けない「21世紀」信仰問答』(キリスト新聞社)など。

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