4月12日「神に聞く」

「キリスト教スピリチュアリティー」とは「超自然的なものに心が動かされること」ではない「出発点」にしっかり立ち、自分自身の進むべき道を見定め、人間の限界性と向き合い、神の無限性を垣間見ている ―― そのような人にとって、「超自然的なもの」は身近にも遠くにも、どこにも存在していない。

霊的なもので満ちた世界に、わたしたちはどっぷりと身を浸している。だから、どうして霊的な体験がないと言えるだろうか? しかし、そのような経験が、「わたしたちの」助言や「わたしたちの」性格に権威を与えるものではない。「出発点」に立ち返るとは神に立ち返ることであると同時に、神の「神が語った」ことに立ち返ることでもある。というのも、神は「存在する」だけではなく「神の言葉」であるからだ。

キリスト教スピリチュアリティーは、わたしたちが自分の経験を語ることから始まるのではない。「神がわたしたちを呼び、癒し、赦(ゆる)してくださること」に耳を傾けることから始まる。

以上のことを頭で理解するのは難しい。習慣的に、わたしたちは自分自身に向かって、自分自身について話すからだ。わたしたちは他者に聞こうとしない。誰かの話に聞く時も、それはほとんどの場合、「自分が話す機会を得るために」聞いているに過ぎないということが多い。「誰かの話に耳を傾ける」という時、わたしたちは多くの場合、それを礼儀作法の一種として行う。つまり、「自分のことを話す順番を礼儀正しく待っている」というだけに過ぎない。しかし特に神との関係においては、そうした習慣を断ち切らなければならない。そして、神がわたしたちに語りかけてくるようにしなければならない。神は存在するだけでなく、神は「語り給う」。

「キリスト教のスピリチュアリティー」とは「注意深い」という特徴に加えて「聞く」という特徴を持つスピリチュアリティーでもある。

「イエスはこう言われた」
今、わたしは分かった。最後の審判の時、何千人もの人々がわたしの所に誇らしげに来て言う。
「主よ、わたしたちは最も重要なことを説教をしました。悪霊を打ち破り、神がスポンサーとなったプロジェクトは皆の話題となりました。」
そして、わたしが何を言おうとしているか分かりますか?
「あなたはチャンスを逃したのだ。あなたが行ったこと全ては、自分自身を偉く見せるためにわたしを利用したのだ。」
―― マタイによる福音書7章22~23a節

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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