昨年の秋、体調を崩して1カ月ほど床につきました。気力も萎えて無為の情けない日々でした。遺言を準備しなくてはとも思いました。
遺言については思い出があります。以前仕えた国分寺教会に「あたため会」という高齢者の集いがあり、その集いで遺言について学習の時を持ったのです。その学習会の数日後に、「あたため会」の1人が天に召されました。脳梗塞で急逝されたのです。
遺言が残されていました。「ひと言書き残します」と言って、一緒に暮らした娘さん夫妻に「お世話になった、ありがとう」と感謝の言葉、90年の簡潔な自分史、そして葬儀など具体的な願い、の三つのことが書かれていました。鉛筆をなめながら書いた感じの見事な内容でした。
私は昨秋、遺言を用意できませんでした。元気な時であれば一気に書けたでしょう。けれど、80代半ばのフレイル状態で遺言を書くのは容易ではなかった。それに、最期を受け入れる心構えもできていなかったのです。
朝日俳壇選者の長谷川櫂著『俳句と人間』(岩波新書)を読みました。芭蕉の最後の句「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」に触れて「人間であるかぎり安らかな死などないのだ」と厳しい言葉を記しています。
信仰の先達、三浦綾子さんの言葉も想起します。「『もう何もすることはない』という人はいない。もう一つ『死ぬ』という栄光ある仕事が待っている」(『北国日記』集英社文庫)。
「安らかな死などない」、でもその死は「栄光ある仕事」であると言う。私たち一人ひとりの避けることのできない課題ですね。
使徒行伝21章15節に「旅装を整えて」とあります(口語訳)。パウロが死の危険を覚悟してエルサレムに旅立つ時の言葉です。「旅装を整えて」には、「内面の旅装」を整えることも含まれているように思えます。
私もキリスト者として、「旅装」を整えねばなりません。人生の最期を受け入れる「心の旅装」を整え、遺言も用意する、そして主の計らいに身を委ねたいのです。
けれど、生き急ぐことはない。残されている一日一日、主の恵みを味わい、平和を祈りながら、ゆっくりと歩みたい――そんな生き方を思いめぐらすこのごろです。「木の葉ふりやまず いそぐな いそぐなよ」(加藤楸邨)。
「急いで出なくてもよい。/逃げるようにして行かなくてもよい。/主があなたがたの前を行き/イスラエルの神がしんがりとなるからだ」(イザヤ書52章12節)
わたなべ・まさお 1937年甲府市生まれ。国際基督教大学中退。農村伝道神学校、南インド合同神学大学卒業。プリンストン神学校修了。農村伝道神学校教師、日本基督教団玉川教会函館教会、国分寺教会、青森戸山教会、南房教会の牧師を経て、2009年引退。以来、ハンセン病療養所多磨全生園の秋津教会と引退牧師夫妻のホーム「にじのいえ信愛荘」の礼拝説教を定期的に担当している。著書に『新たな旅立ちに向かう』『祈り――こころを高くあげよう』(いずれも日本キリスト教団出版局)、『老いて聖書に聴く』(キリスト新聞社)、『旅装を整える――渡辺正男説教集』(私家版)ほか。