『キリスト教年鑑』が統一協会の掲載をやめた理由 【再録】『キリスト教年鑑』と世界基督教統一神霊協会

 宗教と政治の癒着をめぐる問題から、旧・統一協会(世界平和統一家庭連合)による被害が再注目されている。かつて統一協会系の「教会」に関する情報も掲載していた『キリスト教年鑑』が掲載を取りやめた1989年版に、その経緯と理由を説明するために収録した座談会が残されている。併載されたカトリック関係者からのコメントと合わせて再録したい。なお、再録は原文のままを原則とし、当該教団の表記については「キリスト教の教会ではない」との認識から本紙の方針として「協会」の表記に統一している。

Part I 座談会 A=神学者 B=牧師

1 既存の教会が認知しているかどうか

編集部 『キリスト教年鑑』1989年版の編集に当たって世界基督教統一神霊協会(以下統一協会と記載)をどう扱うかが、問題となってまいりました。従来から、統一協会の記載について、さまざまな所からさまざまな形で異議が寄せられてきました。しかし、編集部としては、キリスト教界の情報源として資料を提供するという立場から、統一協会を記載し続けてきたわけです。といいますのは、「キリスト教年鑑』は、「これがキリスト教会で、あれはキリスト教会ではない」というような法人の教会性を否定したり認知したりする性格のものではなく、「キリスト教会である」と称している法人を、可能な限り調査収集して記載し、情報源としてご利用いただきたいというのが本来の趣旨であるわけです。ですから、本来の趣旨の筋を通すということから言えば、今までの編集方針は筋を通してきたということになります。けれども、NCC(日本キリスト教協議会)、日本福音連盟、日本カトリック教会、日本のキリスト教の大勢を占める団体及び教会から、「統一協会はキリスト教会ではない」という趣旨の声明が相次いで発表され、また社会的にも、キリスト教と相反するような疑義が大きな問題として生じてきましたので、統一協会をどうとり扱うか、編集部で慎重に考えてみようということになったわけです。

この座談会は、統一協会の扱いについて、参考にさせていただきたいということから編集部が企画したもので、最終的な判断及び取り扱いの責任は、もちろん編集部が負うことになります。

A 『キリスト教年鑑』には、ちょっと本来のキリスト教からはずれているような教会や宗教組織も記載されています。例えば聖書の他に経典を持っている教派や、ある教理を極端な形で強調するような教派などがありますけれど、少なくとも、それに対する現存の教会の態度は程度の差はあれ、受容というか黙認というか、そういう所だろうと思うのです。しかし、統一協会となると、さまざまな教会から声明が出ていて、認知されていない、認知するわけにはいかないという現実がある。これは、編集部の統一協会の扱いについて、一つの立ち場を成り立たせ得るものだと私は思うのです。

編集部 新宗教が興る場合、既成の宗教に対する不満から、その足らざる所を補うという建設的な試みがその中にあるというのがあります。日本のキリスト教界の中にもそのような例が見られますが、そういう場合、最初のうちは猛烈な反対があっても、やがて既存の教会からも受容されていくようになるわけですね。統一協会の場合は、発生の段階からの問題が続き、それがますます拡大しているようなところがみられますね。

 ユニテリアンは、ヨーロッパでソッチーニ主義といって、宗教改革の時代に現われ、当時の既存の教会からは認知されず、迫害を受けて、だいぶんアメリカに逃げたわけです。しかし、次第に認知されていくようになるわけですね。ですから、これは結局、その教派の努力の問題だと思います。

 既存の教会が認知する、あるいは認知しないという場合、やはりその許容の規準、限度という問題があると思います。統一協会はご承知のように文鮮明氏が教祖といわれていますが、例えば『御言集・絶頂を越えよ!』という書物などを見ますと、「もう今先生は死んでもイエス様みたいに失敗の男ではありません」と言っている。「御言葉」というのは文鮮明氏の説教購演集で、「先生」というのは文鮮明氏自身のことです。その他「イエス様を解放してあげる人でなければ、イエス様の下の者を解放してあげることは絶対に出来ません」とか、イエスは結婚すべきであったのに結婚していないとか、イエスを祝福してやったとか、イエス様を見下げた表現をする一方で、文鮮明氏自身はより高い位置からものを言うという具合です。これに類する表現は、統一協会の文書で数多く指摘することができます。そういう立場で聖書を解釈するわけですから、私どもの聖書解釈とは全く異った考えが出てくることになります。

 お話のようなことですと、既存の教会に認知されるということは難しい感じを受けますね。というのは、正統教理から外れているようなキリスト教思想であっても、少なくともイエスに対する尊敬の念のないものはないと思うわけです。ところが、「イエス様みたいな失敗の男」というようなことを言っているとすれば、 むずかしくなりますね。

 これは噂とか伝え聞きとかではなく、印刷物になっていて、統一協会の人達に読まれているものですから。

編集部 信仰の自由ということから言えば、信じる信じないは当事者の問題ということでしょうが、しかしこれではキリスト教として認知されるわけにはいかないということですね。

 それは、認知する主体がどこにあるかということでしょうね。例えば、キリスト教年鑑編集部がこれをどう判断するかですが、現存のキリスト教諸教派の大勢が、統一協会を受容していないから、今のところ年鑑に記載することはしないというのも一つの立場で、そういうことであれば、将来認知されるようになれば、また記載することもあり得るということになるわけです。そういうことで、キリスト新聞社は済むでしょうが、教会はそういうわけにはいきません。

教会は、NCCにしても、カトリック教会、福音連盟にしても、信仰告白ないしそれに準ずるものを持っていますから。もっとも、信仰告白について厳しいかゆるやかかどいうニュアンスの違いはありますが、何か信仰的基準というものはどの教派も持っていますし、判断を迫られるとなると、やはりそこから判断していくことになりますからね。

しかし、キリスト新聞社は教会ではありませんから、もっと楽なんですよ。

2 出版物にみるイエス・キリストへの態度

編集部 『キリスト教年鑑』は、情報を提供するという働きを持っているわけですが、もちろん私共の意図とするところは伝道のお役に立ちたいということがあるわけです。その場合、既存の教会の働きに逆作用するようなことがあってはいけないわけですし、その点からも、統一協会の扱いを再検討してみようということになったわけです。

 先程、『御言葉・絶頂を越えよ!』のことを申しあげましたが、この中には別の箇所ですけれど、「そういう時が来た場合には、統一協会の原理原則に一致しない者は、きれいに整理してしまう」ということが言われています。これは、共産党のことが頭にあって、文脈はそれにつながっているわけですけれど、統一協会に反対するような動きは、先ず共産党につながらせていくわけです。それから、別の文書に「暴力団と闘う。だから、青年たちに空手を教える」というのがあります。続いて、おかしなところがありますがそのまま引用します。「暴力団を伝道し、いよいよ我らの働きぶりが全国復帰という基準がなくなった。伝道しようとしてもみんなしている。やることがない。何をやるか。それは内部を改造する。暴力団を掃討せよ。街角に立って腕章をかけて、統一暴力団防止団として…皆喜ぶよ。警視庁も応援するにちがいない。国家も援助する。力で来れば力でやる。悪的暴力団を善的暴力勇士が皆壊してしまう。」その善悪の基準を決めるのは統一協会であり、文氏であるわけです。

編集部 統一協会を批判する集会を妨害するような場合は、そういう理論が思想的根拠として出て来るということでしょうか。

 そういう行動は、彼らにとっては、むしろ善いことになるわけです。目的のためには、常軌を逸することでも皆善になるということです。聖書の解釈でも、例えば、『原理講論』の313頁に、ノアの話が出てきますが、教会で言われていることとは全く違った解釈になっています。「原理講論』をちょっとお調べいただければ、これがどんなに聖書をねじりにねじった引用と解釈であるか、一目瞭然です。そこには自分では良くないことだと思っても、それを批判しないであくまでも良いこととして見なければならないという、批判を封じられた生き方があります。そしてそれが霊感商法などにつながっていくわけですね。

編集部 つまり、目的というか、結論が決まっていて、聖書から導き出された聖書解釈というようなものでなくて、結論に引っぱっていくために、曲げた解釈でも何でもやっていくということでしょうか。

 ですから、統一協会の会員は、自分で考えて自分で行動することができなくなる。自分が良くないと思っても、徹底的にそれを良いと思わなければならないということですから……。

編集部 先生が今まで接してこられた統一協会の青年たちは、統一協会はキリスト教の教会だと思っているのでしょうか。

 そう思っていますね。統一協会自体は、旧新約聖書を教典とするキリスト教の教団といい、『原理講論』は教理解説書となっていますが、これは私から言わせれば二重構造でして、肯定しているように見せかけて否定するというのが統一協会です。聖書は大事だといいながら実際あまり読んでいない人が多いようです。統一協会のある事業部に所属して1年10カ月生活した青年は、毎朝6時からの祈禱会や毎日曜日5時からの三拝敬礼という文氏の写真の前に土下座しての礼拝に参加していたが、その間聖書が読まれたことは一度もなく、毎回印刷された文鮮明氏の説教が読まれていたことを証しています。先程も申し上げましたが、聖書が伝えるイエス・キリストを見下げるような所ですから……。それでいながら一般の方たちに私たちと同じキリスト教の教会だと思わせているわけですね。統一協会に子どもが入って困ってしまった親が、ある牧師さんに相談に行ったところが「統一協会は知っています。彼らは皆真面目な青年たちで、良い人たちですよ」と言ったというのですね。一見普通の時は良い子たちです。しかし、文先生はメシアでないと言ったりすると、深く心が捕えられている真面目な子ほど大変なことになります。

編集部 キリスト教であるとの許容範囲についてですが、あくまでも個人的な考えを一般論としてうかがいたいのですが、そのポイントとなるところはどの辺りでしょうか。

 やはりキリスト論だと思います。これは私個人の考えですけれど……。しかし、過去に異端として迫害されたようなものも含めて、さまざまな思想や立場や解釈があるわけですが、イエスに対してはいずれも最高の尊敬を払っています。例えば、イエスはキリストでないという立場でも、少なくともイエスに対する尊敬の念は失われてはいません。

 文鮮明氏は、「イエスを祝福してやった」という言い方をします。また、「まことのご父母様のみ名によって」などと自分の名前で祈らせます。じかし、アメリカの牧師宛に送った文書では、イエスのみ名によって祈っています。こういうごまかしがあるのです。さらに例をあげれば、文鮮明氏は1935年4月17日、復活祭の日にイエス・キリストに接し、啓示を受けたとされています。これが他の本では1936年4月17日になって1年違っています。しかも曜日を調べると、どちらも日曜日ではありません。この記事を掲載しているのは統一協会系の同一の出版社ですから、お話にもならないわけです。それでいて、イエス様が雲に乗って来られることを文字通り信じているといって既成のキリスト教をあざ笑い、批判したりするわけですね。

編集部 NCC、福音連盟、カトリック教会などから、統一協会について声明や見解が発表された時、「統一協会はキリスト教会ではない」という言い方は、少し僭越な表現ではないかと思ったのですが·····。例えば、NCC、福音連盟にしろ、NCCの立場とは異るとか、福音連盟の信仰とは違うという言い方であれば、なるほどと思うわけですけれども、「キリスト教ではない」ということになると多少ひっかかりみたいものを感じたわけですが、その点についてどうお考えでしょうか。

 先程も申し上げましたが、 カトリックはカトリック、福音連盟は福音連盟、NCCはNCCで、キリスト教かどうか判断し提示する義務を生じる場合があり得ると思います。カトリック教会の場合でしたら、ローマ・カトリック教会の信仰を唯一の正しいキリスト教だと思っていますから、他は間違っていると思っているわけですね。しかし、昔のような激しい論争はしないで、現在は対話をしようというような傾向になっています。しかし、それでも、それぞれの教会が声明を出しているように一定の見解を述べることを余儀なくされるということは、十分あり得ると思います。

 私もイエス様が失敗者であったという考えで聖書を読んでいては、キリストの教えを伝える教会とはなり得ないと思うし、キリスト教会とは言えないと思います。確かに、イエス・キリストの神性を素直に受け入れることができない人もいるでしょう。しかし、イエス様を見下げたような表現は、少なくともキリスト教の教会と言われるところにはありません。私から言わせれば、統一協会の思想は陰陽道、シャーマニズム、ゾロアスター教、韓国の神秘キリスト教のキメラ的世界ですね。

3 知られざる青年会員たちの実態

編集部 もう一つ、これは大切な問題ではないかと思うのですが、統一協会及びその当事者、会員の青年たちは、私どもの考えですと、やはり神の前に被造物であるわけです。既存の教会の伝道の上では、当面の敵というか、そういう表現で私共編集部に意見を寄せられた方もおられましたが、私どもが統一協会と対処するに当たっては、どのように対処するかが問題となってくると思います。例えば、先程から、認知とか受容とかいう言葉が出て参りましたけれど、既存の教会が統一協会を認知するようになるには、われわれの働きとしては何があるか、統一協会自身には、どのような途があるか、そのあたりのところはいかがでしょうか。

 結局、統一協会の特徴をどこで捉えるかという問題になると思いますけれど、少なくとも、信仰内容においてイエスは失敗者だというようなことであれば、仲間にはされないと思います。それから社会的に物議をかもしているようなこともありますし、ああいうことも、認知され難い条件になってくるのではないですか。

 私もそう思います。社会的な問題に触れられましたので申し上げますが、新聞などで問題にされた霊感商法の他に、募金の問題があります。全国規模で募金しているようで、これに参加し、今は救われている当時の裏会計担当者の話では、まず証明書と、1万円だけを公的施設に寄付しての感謝状と、道路使用許可証とを準備し、それをコピーして多くのグループに配り、各グループは「恵まれない子に愛の手を」などと書いた箱をもって、年末年始に街頭や神社などで募金します。あるグループでは10人で100万円程集めましたが、各グループは事業団事務局からの指令で、その中から各自お年玉として1万ずつもらい、合同結婚者はさらに1人1万2千円ずつもらい、残りの金は、さらに多くのグループの金と一緒にされて統一協会のために使用されたということです。このようなわけで他の真面目な募金活動が、非常にやりにくくなっているわけですね。それから、健康保険証なども、他人のものを使うことが当たりまえになっていることを多くの脱会者が話しています。こういう仕組みを、皆承知の上で神様のために、早く地上天国ができるためにとやっています。彼らはそういうことを悪いことだとは思わないようにさせられているのです。

編集部 社会的な問題の一つをうかがわせていただきましたが、社会的な問題、教義的な問題、二つ共に受容という点ではむずかしい問題ですね。特に社会的な問題とされているのが、それを支えている思想に教義的なものがからんでくるということになると、ますます根は深いものになってくるわけですね。先程、統一協会そのものが認知されるようになったら、その時は『キリスト教年鑑』に載せるようにしたらいいというお話もございましたけれど、教義自体がそういうことであれば、教義に基づいて教会は形成されるわけですから、現在の統一協会が既存の教会に認知、受容される可能性は、ほとんどなくなってしまいますね。

 そういうことかも知れません。

 今のままでしたらそうでしょう。先程、当面の敵というようなことを言われましたが、私どもは、本当に祈っているのです。文鮮明氏とかその家族、そして統一協会のメンパーが、悔い改めて真の神様を信ずることができるように。今は、統一協会に行っている人は青年ばかりではありません。壮婦といって、中年の婦人も壮年もいます。これらのだまされている人々を敵とは思っていません。救われるように祈っています。統一協会にはいってしまった子を持つ親たちも、親不孝な子だと最初は言っていますが、実情がわかってくると可哀想になってくるようですね。

編集部 だまされて、社会をだまし、あざむいているという筋書きになりますか···。

 落ちついて統一協会の文書を読んでいけば、統一協会をやめるようになると思うのですが、そういうことができないようになってしまうのでしょう。親たちがそこから出そうと一生懸命になればなるほど、そんなに自分を思ってくれる親のためにもこの信仰を捨てることできないと思うわけです。統一協会の言葉でいうと、「氏族のメシャ」になってくるわけです。とにかく、選ばれた民であるという信念は強いですね。だから親たちは途方にくれる。

社会をだまし、あざむくと言われましたが、統一協会では「アベル」という指示者が各自に付いていて何でもその人が言う通りにするわけです。その人が一緒になって臓を考えてくれる。そういう世界ですね。目的のためには手段を選ばない。おしなべてそういうことが言えると思います。

統一協会系の組織に世界平和教授アカデミーというのがありますけれど、大学教授をアタックする場合も、マニュアルがあって、目標の教授の専門を勉強しておいて、ほめて、感動してみせて、贈り物をして、そして会員にしてしまうということです。こういうことを一見真面目で良い青年と思われる者たちがやるわけですから、実体を知らない場合は、大学教授でもあざむかれてしまうわけですね。

 いずれにせよ、キリスト新聞社は、「統一協会は教理上キリスト教ではないから、『キリスト教年鑑』に載せることではできない」という所まで言う必要はないと思います。もちろん、そう言おうと言うまいと、それはキリスト新聞社の自由ですし、そこまで踏みこもうというのなら踏みこんでもいいと思いますが、そうしたら、いろいろむずかしいことも出てくると私は思います。そこまで行かなくとも、現存のキリスト教会がキリスト教として認知していないからという、そういう立場で、キリスト新聞社の場合は十分ではないかと思うのですね。教会は必ずしもそうはいきませんが。

 私の場合、統一協会をやめた青年とかかわりを持っておりますし、子どもたちを統一協会から救い出してほしいという親たちともかかわりを持ってきましたので、そういう体験を踏まえてお話しいたしました。『キリスト教年鑑』1988年版を調べたところ、ある教派の教会の責任者、つまり牧師に当たる方たちですが、ほとんどが統一協会の方で占められていることがわかりました。統一協会の扱いについてお考えでしたら、ぜひその教派の扱いについてもお考えいただいてしかるべきではないかと思います。くり返して申し上げますが、目的のためには手段を選ばずというところが統一協会にはありますから。

『キリスト教年鑑』という大切なお仕事に、私の発言がお役に立てればと思ってます。

編集部 『キリスト教年鑑』は、かなり歴史もありますし、編集の意図する所とは別に、いろいろな所でさまざまな用いられ方をしております。用いられ方の一つに記録、歴史的資料ということもありまして、現にキリスト新聞社までおいでいただいて、古い年鑑をお調べいただいていらっしゃる方も大勢いらっしゃいます。そういう場合、統一協会を記載から外してしまった場合、外すについて主体的な理由づけ、また、次に記載するような場合には、やはりそれなりの主体的な判断をしっかり持っていなくてはなら.ないと思うわけです。

実は、以前統一協会を『キリスト教年鑑』の記載から一回外し、再び記載した事実があります。それなりの理由があったのでしょうが、古いことになりますと、はっきりしたことが不明になってしまいます。そういうことから今の編集部が代替りしても、理由づけを何らかの形で残しておきたいということで、まず先生方に、ご意見をうかがわせていただきました。

仮りに統一協会を記載から外すにしても、また残すにしても、これは編集部の責任においてすることですし、歴史的な評価ということになりますと、現在ではわからない所が多いわけですが、現在の編集部がこういう問題に慎重にとり組んだ事実だけは、この仕事を引き継ぐ者にも理解してもらいたいと思うわけです。お二人の先生方には、貴重なお時間を割いていただき、また貴重な意見を承わらせていただいて、心から感謝いたします。


Part II コメント「世界基督教統一神霊協会」について

神林 宏和(かんばやし・ひろかず=カトリック中央協議会事務局次長)

お尋ねの件につきまして、教団としてではなく、私個人の資格で以下のようにお答えさせていただきます。

1985年に、日本カトリック司教協議会が「世界基督教統一神霊協会」について、それが「キリスト教でもなく、ましてやカトリックでもない」ことを声明したときには、『原理講論』(光言社、1968年6月25日 第4版)を参照し、教義的な面から判断を下しました。

その主な教義は、キリストによる啓示の完成、キリストの神性、十字架によるあがないですが、もし、これを否定したら、カトリックであるか否かを問わず、キリスト教とは言えないと判断しました。

このときには、「世界基督教統一協会」について、社会的問題を起こしているとか、いないとかについては判断を下しませんでした。それよりも、「世界基督教統一神盤協会」が短期間に大きく発展した背後には現代社会のゆがみがあり、社会の世俗化、都市化、機械化などにより、家族から離れ、目的を失い、生きがいを失って、人性に不満を持ち、孤独に悩む人々がいると考え、カトリック教会が、司祭、信徒ともに、これらの人々に積極的に働きかけるべきであると呼びかけました。

また、キリスト教でなければ、キリスト教一致運動の相手にはなり得ない、とは言いましたが、宗教ではない、とは言っていませんので、諸宗教との対話という路線の中で話し合う余地は否定していません。

キリスト教年鑑に「世界基督教統一神霊協会」を載せるかどうかについては、最初に、判断の理由をお示しになれば、よいのではないでしょうか。キリスト教年鑑に記載されているからキリスト教として認知されたものではないということを明確にさえすれば、カトリックとしては異存はないものと思います。

「統一協会」の情報が掲載された最後の『キリスト教年鑑』(1988年版)


『キリスト教年鑑』1989年版「編集後記」より抜粋

「今回の年鑑から世界基督教統一神霊協会(統一協会)と日本基督和協教会の二教派とその関係人名簿を削除いたしました。巻頭の座談会はその削除理由の一端を明らかにするため掲載したもので、ご一読ください。……(年鑑編集部一同)」

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