1月28日「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」

新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ(マタイ9:17)

宗教には、救いの内容や信仰を表現する礼拝儀式や宗教行為がある。しかしそれは、ともすると形式や習慣に陥りやすい。しかも、それらが喜ばしいものでなく義務となり、その義務を果たさない者を非難する宗教ならば、その宗教はいのちを失っていると言うほかない。

ファリサイ派の人々が主イエスに「私たちは断食しているのに、なぜあなたの弟子たちは断食しないのか」と非難したとき、主は、「花婿が一緒にいる間、婚礼の客はどうして悲しんだりできるだろうか」と言われた。つまり、花婿(イエス)と一緒にいる婚礼の客(弟子たち)としてふさわしいのは喜びであって、断食ではないということである。そして、主イエスと一緒にいることを、発酵力のある新しいぶどう酒にたとえて語った。

花婿である主イエスと一緒にいるという神の国の福音は、喜びに溢(あふ)れたものであり、形式や習慣という古い革袋に入れることはできない。それは新しい革袋を必要とする。福音は単なる教えではない。インマヌエル、「神は我々と共におられる」(1:23)という喜ばしい事実である。この世にはさまざまな試練があり、自分の弱さや不運に泣くこともあるが、福音は、それらによっても失われない喜びを告げる。私たちは、神の子イエスによって一切の罪を赦(ゆる)され、過去のしがらみから解放され、神に希望を置いて生きる者とされた。この喜びを表す革袋が、形式や習慣であるはずがない。私たちが守る礼拝も、決して義務的な形式や習慣ではなく、婚礼に招かれた者たちが喜び祝うように、インマヌエルの事実をいつも新たな思いで受けて、神を喜び祝うのである。

内藤淳一郎

内藤淳一郎

西南学院大学神学部卒業後、日本バプテスト連盟の教会で牧会、鹿児島大学哲学科のカトリックの神学の学びから、鹿児島ラ・サール高校でも教える。日本バプテスト連盟宣教室主事、日本バプテスト連盟常務理事を8年間務める。

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