1月9日「言葉は贈り物」

交わりのために言葉が贈り物として与えられている。わたしたちは交わりの本質を学ぶ必要がある。これは次のようなことが啓示されるリスクを伴う。 ―つまり自分自身の全てが露(あらわ)にされ、自分がどのような人間であるのかという秘儀がそれである。もし、わたしが無言でここに立っていれば、わたしに何が起きているかは、あなたには分からないだろう。あなたがわたしを見ることができ、身長を測ることができ、体重を量ることができ、試すことでができたとしても、わたしが話し始めなければ、わたしが実際どういう人物であり、わたしの中で何が起こっているかが分からないだろう。もしあなたが聞き、わたしが真実を話し始めると、何か素晴らしいことが起こり始める。― 新しい出来事が起こる。以前にそこになかった、何かが生まれる。神がわたしたちのために行う。神が行ってくださるからこそ、わたしたちは学ぶことが出来る。そこから新しいことが起こる。救いが生まれる。愛が生まれる。聖餐式も生まれる。これこそ聖餐式が示す交わりである。このように使われる言葉は謎を定義するのではなく謎を深める ― 曖昧なものに入り、完全で知られたものを超えて、危険な未知なものへと導く。キリスト教の聖餐式は最も、単純な言葉を用いる。「これはわたしの体です。これはわたしの血潮です」(マルコ14章22節、24節)という言葉は、想像力をき立てる啓示の行動へと飛び込ませる。それは、わたしたちが参与するのだが、決して理解できないものである。

この言葉は何かを説明してるのではない。この言葉は方向性を示し、手を差し伸べ、包み込む。わたしが病気の人々や危篤の人々や孤独な人々を訪ねる度に、すぐに明らかになることがある。唯一価値のある言葉は交わりの言葉だけである。残念なことは、交わりを深める言葉がまれにしか使われないことである。わたしたちは時折このような機会で、言葉を使いながら迷惑をかけているのは自分だけであることを知る。病気の人々、孤独な人々、瀕死の人々の色々な試練を少しも聞こうとせずに、彼らが聞き続けなければならないのは延々と続く中身のない言葉や決まり文句である。医師は部屋に入り診断のことを知らせ、家族は心配事を分かち合い、友人たちはその日の世間話を分かち合う。彼ら全員がもちろんそうする訳ではない。いつもそうする訳でもない。だが、悲しいことに、病気の人々や孤独な人々や危篤の人々や街角やオフィスや、職場や学校で、交わりが行われることは多くはないという現実である。そのためには、クリスチャンが「交わりの言語」の専門家になることが急務なのである。

適切なタイミングで語られる適切な言葉はオーダーメイドの宝石のようなものである。賢明な友人のタイムリーな叱責は、指にはめた金の指輪のようなものである。
― 箴言25章11~12節

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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