ふさわしくない人こそがふさわしい【聖書からよもやま話250】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
一週間の夏休みをいただいて、すっかりリフレッシュいたしました。

【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、アモス書の5章です。それではよろしくどうぞ。

◆アモス書 5章15節

しかし、主が、群れの世話をしていたところから私を取り、主が私にこう言われた。『行って、わたしの民イスラエルに預言せよ』と。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

アモスは神様から預言者として選ばれてその仕事をしましたが、もともとは羊を飼ったりイチジクを育てたりしていた、ごく普通の人でした。特に「預言者としてふさわしい何か」を持っていたわけではありません。ふさわしい能力をみんなに認められていたわけでもありませんし、ふさわしい地位が与えられていたわけでもありませんし、相応しい血統を引き継いで生まれたわけでもありませんでした。しかし神様はそんなアモスを選んで預言の役割を与えました。

むしろ神様は何も「預言者としてふさわしい何か」を持っていなかったからこそ、アモスを選んだのかもしれません。アモス書に限らず、聖書全体を通して「私こそ、この役割にふさわしいのだから、私にその役割をください神様!」なんて自己アピールをする人を神様が用いたという話はまずありません。ノアもモーセもアブラハムもみんな「いやいやいや神様、私にそんなことはできません、無理です、私なんてふさわしくないです」と言いながら、神様に「いいから君がやれ」と選ばれています。

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Photo by Randy Fath on Unsplash

聖書の世界では自分で自分を「ふさわしい」と思っていること自体が神様から「ふさわしくない」と判断され、反対に自分で自分を「ふさわしくない」と思っていることが神様から「ふさわしい」と判断されることが非常に多いんです。まさに、ふさわしくないものこそがふさわしい、という世界なんです。一般社会では何かの役割や地位を得るにはプレゼンテーションやコンペや試験・・・そんな「関門」や「ハードル」を乗り越えて「我こそは!」と声をあげなくてはいけませんが、それは聖書の世界では逆効果なんです。

でも実は一般社会でも、そんなことってありますよね。何かの地位につきたいと願い、アピールする人は、その地位につけば自我が強く出ます。そういう人はその地位において「求められていること」ではなく「自分のやりたいこと」をやりがちです。「求められている通りに」やるのではなく「自分のやりたいように」やりがちです。それでうまく務まる役割もありますが、それでは務まらない役割もあります。

神様に与えられる仕事もそんな「我こそふさわしい!」と思う人には務まらない仕事なのだと思います。自分には何かに「ふさわしい何か」なんて何もないと思っている人をこそ、神様は「君だ!君こそふさわしい!」と選んでくださるんです。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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