『忠臣蔵』を観ながら不倫する奇妙な光景【聖書からよもやま話198】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、   列王記第一の9章です。それではよろしくどうぞ。

◆列王記第一 9章7節

イスラエルは、すべての民の間で物笑いの種となり、嘲りの的となる。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

これはイスラエルの民と神様との間で交わされた約束の一部ですけれど「この約束を破ったら、君たちはみんなの笑い物になるからね」という意味です。そしてその約束というのは「神様の言うことを守って、決して他の神様を拝んだり仕えたりしてはいけないよ」ということです。

現代社会でも約束を守れない人や、自分の言ったことをコロコロとひっくり返す人は信用を失います。特に自身の本質や土台の部分をひっくり返す人はやがて笑い物になるでしょう。

僕はこれ、ちょっと不倫に似ているなと思います。「この人を愛する」と心に決め、場合によっては誓いを立てた相手を愛し続けることをせずに他の人を愛するというのは、「神様に従います」と心に決めて誓いを立てたのにも関わらず、他の神々を拝むようになるのと同じ構図です。聖書によれば、そのような心変わりは「物笑いの種」であり「嘲りの的」です。

もちろん人間ですから、結婚をしていても恋に落ちてしまうことはあるかもしれません。「出物腫れ物所嫌わず」とも言いますし。そして一度火がついてしまった恋心を鎮火するのは思うよりも難しいことです。しかしそれでも「だから仕方ないんだ」とか「不倫して何が悪い!」とか「不倫は文化だ」なんて開き直ってしまうのは、あえて厳しい言葉を使いますが、まさに「物笑いの種」であり「嘲りの的」であると思います。そこで必要なことは、他の相手や神々に心を動かされた自分の心に気づいたら、そこで本来愛すべき相手や愛すべき神様に向き直り、見つめ直すことです。

異性間でも同性間でも、二者間の愛というのはお互いに忠義を誓い合うことではないかと僕は思っています。健やかなる時も病める時も富める時も乏しい時も、お互いに裏切らないことを約束しあうのが結婚式での誓いのことばです。ですから不意に恋や思いが他の対象に燃え上がってきた時は、その誓いを思い出して、その忠義の心に立ち返ることが必要かと思います。

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仮名手本忠臣蔵十段目。三代目歌川豊国画。天川屋義平(八代目片岡仁左衛門)、矢間十太郎(五代目市川雷蔵)

最近はそうでもないかもしれませんが、一昔前まで多くの日本人は『忠臣蔵』が好きでした。毎年のように大晦日には「大型時代劇」とかで放送されていたものでした。今では昔ほど『忠臣蔵』自体を見ることはなくなりましたが、しかしそれでも日本人の好む人格として「忠義心」というのは今でも強く残っています。「忠」とか「義」と聞いて、悪い印象を持つ人は少ないでしょう。しかしながらそれなのに、その「忠」とか「義」とかを高く掲げる一方で、反対の手では不倫をしたり肯定したりしているのも日本人です。社員に会社への忠誠心を求める一方で自分は夜な夜な愛人と不倫する社長なんて、こう考えるといささか奇妙なものです。昭和の時代には不倫カップルが大晦日に一緒に『忠臣蔵』をみるなんてこともあったようですが、本当におかしなことです。

だからと言って、芸能人の不倫のニュースを見て、必要以上に非難したり攻撃したりするのもどうかとは思いますけどね。忠義というのは二者間の契約関係です。それを破ることは二者間の契約違反であって、第三者が介入すべきことではないからです。パートナーを裏切ったらなら怒るべきは裏切られたその当事者ですし、神様を裏切ったのなら怒るべきは神様であって、それ以外の第三者ではありません。とはいえそれでも第三者の信用を失うのは避けられないことでしょうけれど。他の人との大切な約束を守れない人と、すすんで自分が約束をしたいと思う人が少ないのは明らかですから。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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