【断片から見た世界】『告白』を読む 「実在のうち、最も光り輝くもの」

洞窟の囚人の修練が到達する終着点とは

プラトンの『国家』で語られる「洞窟の比喩」における重要な論点の一つは、人間存在が自らの魂のうちに内在する認識の能力を開花させてゆくためには、一筋縄ではゆかない修練のプロセスが必要であるというものです。

「だから、思うに、上方の世界の事物を見ようとするならば、慣れというものがどうしても必要だろう。まず最初に影を見れば、いちばん楽に見えるだろうし、つぎには、水にうつる人間その他の影像を見て、後になってから、その実物を直接見るようにすればよい……。」

この修練のプロセスは囚人が洞窟を抜け出して、天空に燦然と輝く「太陽」を目にする地点において、ひとまず終着点に達することになります。『告白』におけるアウグスティヌスの探求が新プラトン主義の哲学と重なり合う領域を見定めるためにも、今回の記事では、このあたりの事情について見てみることにします。

「実在のうち最も光り輝くもの」

『国家』516B:
「思うにそのようにしていって、最後に、太陽を見ることができるようになるだろう。水その他の、太陽本来の居場所ではないところに映ったその映像をではなく、太陽それ自体を、それ自身の場所において直接しかと見てとって、それがいかなるものであるかを観察できるようになるだろう。」

囚人はついに、洞窟の壁に映る影しか目にしたことのなかった段階から出発して、「太陽」そのものを見ることができるようになりました。光そのものに、そして、現実の事物から放たれるまばゆさに慣れてゆく過程は苦痛に満ちたものではありましたが、囚人はこの「真実を見ることの痛み」をも克服して、魂のまなざしの修練の最終到達点へとたどり着いたことになります。

「洞窟の比喩」において「太陽」は、〈善〉そのものを表しています。思索者としてのプラトンはこの〈善〉のことを、「実在のうち最も光り輝くもの」と呼んでいます。すなわち、囚人はもともと自分自身が住んでいた「洞窟=感覚の世界」を抜け出して、「外界=思考によって知られる、イデアの世界」へと足を踏み入れていったわけですが、〈善〉はそこで見出されるもろもろのイデアをも越えていったはるか彼方に、あらゆるものの最果てにそびえ立っているとされるのです。

「目に見えるものの世界をも超えたところに、それも、その世界を超えるもろもろのイデアの世界をもさらに越えていったところに〈善〉そのものがそびえ立っているなどということを、どのようにして論証するのだろうか?」これは今も昔も、プラトンの哲学に触れる多くの人が抱かざるをえない疑問ではありますが、プラトン自身はこの〈善〉のことを、長く苦しい探求のプロセスを経て初めてはっきりと見てとることのできる「実在の中の実在、光の中の光」であると考えていたことについては、改めて確認しておく必要があるかもしれません。そして、ここで語られている〈善〉こそは、後に新プラトン主義の哲学によって〈一者〉と、さらには、古代から中世にかけてのキリスト教の哲学によって〈神〉と同一視されてゆくことになる当のものにほかならないという事実は、アウグスティヌスの『告白』を読み進めている私たちにとって決して無視することのできない、きわめて重要な論点なのではないかと思われます。

「天使が足を踏み入れるのも畏れるところ」

「洞窟の比喩」で語られている〈善〉については、次の二点を指摘しておく必要がありそうです。

〈善〉がいかなるものであるかということは、人間が自由に決定できるような事柄には属していません。従って、思考することを通して〈善〉の内実に近づくためには、果てることのない研鑽と労苦が必要とされるものと思われます。

「洞窟の比喩」においても、「実在のうち最も光り輝くもの」である〈善〉(=太陽)は、認識することの光に慣れてゆく過程の最後において、ようやく見て取られうるようになるものでした。プラトンよりもはるか後の時代においても、アンセルムスの「神の存在証明」からカントの「最高善」の探求に至るまで、〈善〉なるものの探求は常に、人間存在の思考そのもののリミットの探求として行われます。〈善〉とは、人間の概念による思考が飽くなき探求の果てに究極の地点にまで至る、その限界あるいは彼方においてようやく仰ぎ見ることのできるようなものなのであって、プラトンが語る「洞窟の比喩」は、このことを最も端的に指し示す表現の一つであると言うこともできそうです。

② そして、実践的な観点からすると非常に重要な論点であるものと思われますが、〈善〉は哲学の道を歩んでゆく人間にとって、自分自身の実存のあり方そのものがそこから定まってくるような「生の根源」としての意味を持つことになります。

『国家』においてプラトンは、〈善〉について、この「最も光り輝くもの」をひとたび見て取ることができたならば、その人間は何が正しく、美しく、善いものであるのかについて、洞窟の中にいた時よりも何千倍もよく見えるようになるはずだと語っています。それというのも、この世界のうちに存在している個々の善いものを超え、世界そのものの存在をも超えて、〈善〉こそは善さそのものであり、人間が「善い」という言葉を語る際に意味されていることの内実を、まさしく「存在の超絶」の彼方から啓示するものにほかならないからです。おそらくはこの法外な性格のために、プラトンはこの〈善〉について、比喩という形式を通して語らざるをえませんでした。この領域、この「天使が足を踏み入れるのも畏れるところ」を、人間存在に許される限りにおいて仰ぎ見るために絶えざる思索の努力を重ねてゆくことこそが、プラトンより後の時代のプロティノスの、そして、アウグスティヌスを始めとする中世の哲学者たちの課題にほかなりません。

おわりに

「何という驚くべき超越であろうか!」と、ソクラテスの対話相手のグラウコンは思わず冗談交じりにおどけた調子で口にしていますが、そのあまりの途方もなさに「ちょっと待ってくださいよソクラテス」という合いの手も入れざるをえない人間の驚き(タウマゼイン)を描き出しているという意味でも、この箇所の『国家』の叙述にはやはり見事というほかないものがあります。ともあれ、『告白』におけるアウグスティヌスの探求に再び戻ってゆくことを念頭に置きつつ、私たちとしては引き続きプラトン的な問題圏のもとでもう少し探求を続けてみることにします。

 

[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

 






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