【断片から見た世界】『告白』を読む 内面への集中と、「顔と顔を合わせて向き合うこと」

「ミラノの見神」は、哲学に何を語るのか

アウグスティヌスにとって、31歳の時に起こった「ミラノの見神」は、彼が自らの最も固有な存在可能に向かって進んでゆく上で決定的な意味を持つ体験にほかなりませんでした。

「わたしはこれらの書物から自分自身にたちかえり、あなたに導かれてわたしの心の最奥に進んでいった。わたしがそうすることができたのは、『あなたがわたしの救い主になられた』からである……。」

「ミラノの見神」とはすでに触れたように、アウグスティヌスが彼自身の予期や想定を超えて、黙想のうちで「不変の光」を目にするという出来事にほかなりませんでした。この体験をめぐる『告白』の叙述から、2023年の現在において哲学することへと向かっている私たちは何を受け取ることができるのでしょうか。今回の記事では、この体験に関するアウグスティヌス自身の言葉を引用するところから話を始めてみることにします。

「外に出てゆかず、きみ自身の内に帰れ」:「心」の哲学者、アウグスティヌスの原点

「ミラノの見神」に関するアウグスティヌスの証言:
「こうしてわたしは、段階的に物体界から身体的感覚によって知覚する魂に、この魂から身体的感覚が外物の知覚を伝える魂の内的感覚に、そしてここまでは動物も到達することができるのであるが、それをこえて身体的感覚から得られたものがその判断を受けるように委ねられる理性的思惟の能力にまで進んでいった。そしてこの能力もわたしにあってはまだ変化することを悟って、自己直視にまで自己を高め、[…]そしてついに、一種の瞥見によって、存在するものに到達した……。」

ここで「存在するもの」と言われているのは、彼にとっての〈真理〉そのものである神のことを指しています。今回の記事で注目しておきたいのは、アウグスティヌスの「ミラノの見神」は彼が外に出てゆくことによってではなく、自分自身の心の最も奥深いところにまで遡ってゆく、その内省の過程の途上において起こったということです。

アウグスティヌスがこの時期に読みふけっていた、新プラトン主義の哲学のことを思い起こしてみます。先駆者であるプラトンが見出した圏域を、さらに深く掘り進めてゆきながら思索し続けたプロティノスにとって、すべての存在の根源に位置する〈一者〉とは、人間が自分自身の「真実の自己」へと突き抜けてゆく魂の旅の、その最終段階においてようやくたどり着くことのできるような何物かにほかなりませんでした。すなわち、可視界という名の洞窟に閉じ込められていた魂の目が、もろもろの〈イデア〉を眺めることに慣れ、さらには、そのもろもろの〈イデア〉を直知しつつ統べ治めるところの〈知性〉(ヌース)へと突き抜けてゆき、そこからなおも突き進んでいった「彼方」において、すべてのものを遥かに超えて進んでゆくのでなければ到達することのできないこの「存在の彼方」においてようやく、人間の魂はすべてのもののアルファにしてオメガであるところの〈一者〉に出会うことになるとされていたのです。

上に引用したアウグスティヌスの言葉は、こうした新プラトン主義のヴィジョンと奥深いところで重なり合うものであることがわかります。「ミラノの見神」は、彼が目に見えるものの世界を探し回ることをやめて、見えないものの方へと突き抜けてゆく、その魂の旅の途上において起こった出来事にほかならなかったと言えるのではないか。「見神」体験の内実についてはこれから詳しく見てゆく必要がありそうですが、ここには、後年のアウグスティヌスが「心」の哲学者としてのおのれ自身の仕事(cf.アウグスティヌスの哲学はその本質的な動向において、デカルトやフッサールの哲学が後に向かってゆくことになる方向を先取りするものであった)へとたどり着くことの、前触れあるいは予兆を見て取ることもできるのかもしれません。

〈他者〉を知ることは、「真実の自己」を知ることと深く結び合っている

論点:
実存する一人の人間であるところのわたしが「あなた」と呼びかけうるような他者に真に出会うためには何よりもまず、わたし自身の心を深く知る必要があるのではないか。

アウグスティヌスにとって、絶対他者であるところの神との出会いは、彼が自分自身の心の内側へと歩み入ってゆく過程と切っても切り離すことのできないものに他なりませんでした。〈自己〉の内面の深みにおいてこそ〈他者〉を知ることができるというこの逆説めいた事実は、私たち自身の意識をあふれ出てゆく「存在の彼方」なる場所について、多くを考えさせます。「存在の超絶」そのものに他ならない〈他者〉に近づくためには、外部性へと自らを開くのと同時に、内奥のものの方へと向き直ることもまた求められるのではないか。

私たちの日常において出会う他者である、隣人たちのことを考えてみます。確かに、数多くの隣人たちのうちの誰か一人に真に出会うためには、一切の先入見や思い込みから自由であるように努め続け、その人の言っていることに注意深く耳を傾けつつ、単独者であるわたしの意識をあふれ出てゆく「彼方」から届けられる言葉や振る舞いの一つ一つに向き合うのでなければなりません。しかし、また同時に、その隣人の語る一つ一つの言葉のうちに宿っている喜びや痛みの存在に触れるためには、わたし自身もまた自らの心の深みにおいて、その喜びや痛みの存在を探り出す必要があるのではないか。心の奥底において、実存の窮迫へと近づいてゆくことも厭わないような仕方で痛みを感じることが、「存在の超絶」そのものである他者について何事かを知ることの欠かすことのできない条件をなしているとしたら、どうだろうか。

かくして、アウグスティヌスが『告白』において語っている「ミラノの見神」体験は、〈自己〉の真実を見出すことと〈他者〉に出会うことの間に存在する連関について、極限的な事例の一つを通して証言するもののようにも思われてきます。実存する一人の人間であるところのわたしは、わたし自身の心の内側へ、その奥底へと降りてゆくことによってはじめて、「あなた」と呼びうるような他者の存在に出会うことができる。逆に、単独者としてのわたしは、わたし自身の意識を超え出たところに存在する〈他者〉の顕現に居合わせ、その「彼方」からの啓示に触れることを通してはじめて、わたし自身の「真実の自己」を見出だすことになるのではないか。対面の関係、「顔と顔を合わせて向き合うこと」はかくして、〈自己〉と〈他者〉のあり方が同時に照らし出されるという意味において、他に還元することのできない根源的な経験を形作るものであると言えるのではないだろうか。『告白』における「ミラノの見神」の叙述はかくして、内部性と外部性の間に存在している、極限的な仕方で絡み合った連関について考えてゆくにあたっての、この上なく貴重な資料を提供していると見ることもできるのではないかと思われます。

おわりに

「形而上学的な渇望は、まったく他なるものを目ざし、絶対的に他なるものに向けられているのである」とエマニュエル・レヴィナスは語っていますが、自己の外部へと、「彼方」へと赴くことが、同時に「真実の自己」にたどり着くための道程をも形作ることになるのだとしたら、私たちは、2023年の現在においてアウグスティヌスという思索者が残したものを改めて根源的な仕方で受け取り直すための手がかりに近づいていると言えるのかもしれません。私たちとしては引き続き、「ミラノの見神」のもとに踏みとどまって考えてみることにしたいと思います。

[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

 






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