忠臣は二君に仕えず、クリスチャンは二神に仕えず【聖書からよもやま話319】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、サムエル記第一の7章です。よろしくどうぞ。

サムエル記第一 7章3節

もしあなたがたが、心のすべてをもって主に立ち返るなら、あなたがたの間から異国の神々やアシュタロテを取り除きなさい。そして心を主に向け、主にのみ仕えなさい。そうすれば、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出してくださいます。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

「キリスト教は一神教で排他的だからよくない」なんてことが、日本ではよく言われます。しかし一方で日本人は『忠臣蔵』だとか、一途に一人の主君に尽くす、いわゆる忠誠心が大好きでもあります。今でこそ少しずつ解禁されたりもしていますが、会社に入れば「副業禁止」は当たり前でしたし、それは「他の仕事を取り除いて、この会社にのみ仕えなさい」と、会社に対する一途な忠誠を求める規定です。

たとえば戦国時代の織田信長が「僕にも仕えて欲しいけど、浅井さんとか浅倉さんとか一向宗とか武田さんとかのところで副業してもいいよー」なんて態度を部下に対して示していたらどうでしょうか。おかしな話ですよね。戦国の殿様というのはどこの国であっても「他の国を捨てて、この国だけに仕えよ」という態度を取るものです。そしてそれを現代の日本人も「当然の要求」として受け入れていますし、それを守る人を「忠義者」として称賛します。

会社や戦国武将であれば、一途な忠誠心の要求を当然のことと受け入れ、それを称賛さえするのに、話が神様のこととなると急に「『私にだけ仕えよ』なんて、排他的な神様でよくない!」と言い出すのは不思議なことです。「宗教だから話が別だろ」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、実はそうでもありません。昔の武将なら、たとえば源頼朝なら八幡大菩薩、上杉謙信なら毘沙門天と、彼らには明確に信じる神仏がいて、一途にその神仏の加護を求め、あっちの神様、こっちの神様とフラフラすることはありませんでした。彼らもまた、それぞれ自分の信じる神仏に対してはそれぞれ「一神教的な態度」で臨むわけです。
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聖書というのは神様と人間の契約書です。それは結婚に似ています。結婚も愛し合う二人が結ぶ契約ですが、それは「あなた一人を私のパートナーとし、他の人をパートナーとすることはありません」というものです。それを破ってしまうことは不倫として世から弾劾されるわけです。このように考えれば、神様は至極当然の要求を自分の民、現代で言えばクリスチャンにしているだけです。結婚の時に「私以外のパートナーとも関係を持って良いよ」なんて人がいないように、神様だって「私以外の神を神として崇めて良いよ」なんて言わないんです。複数の信仰を持つことは、複数の家族を持つのと同じような背信行為なんです。

何事においても、あっちにフラフラこっちにフラフラしている人が報われることはありません。「他の神に仕えてはならない」という命令は、神様を信じない人には「僕には関係ないことだね」と思えるかもしれませんが、この意味では信じる人にも信じない人にも同じように与えられている教訓なのだと言えます。

日本人が宗教について「一神教」を嫌うのは、多くの方がそれを「趣味」レベルのものだと考えているからかと思います。「仕事は一つに集中すべきだけど、趣味はいくつあってもいいじゃないか」と、そんな感覚なのだと思います。しかし、信じる人にとって信仰というのは決してまったく「趣味」レベルのものではなく、仕事よりも大切な「信条」であり「生き方」「生き様」です。それを二つも三つも持つだとか、あっちこっちにフラフラさせるということが、望ましいことではないというのは、多くの方が同意することかと思います。

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

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