NHK大河ドラマ「麒麟がくる」とキリスト教(4)Go Toトラベルで行きたい細川ガラシャゆかりの地

細川ガラシャ(芦田愛菜)は1563年、明智光秀(長谷川博己)の娘として、越前国(現在の福井県)に生まれた。その頃、光秀は朝倉義景(ユースケ・サンタマリア)に仕えており、住居があったのは現在の福井市東大味町土井ノ内にある明智神社の付近だったという。65年頃までこの東大味に屋敷を構えていたから、そこが光秀の次女(三女という説もある)たま生誕の地ということになる。

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明智神社には現在、「明智光秀公三女細川ガラシヤゆかりの里」と刻まれた石碑が立っている。福井駅からはクルマで20分くらい、東南に10キロ行ったところだ。

細川ガラシャ生誕の地である福井市の明智神社(写真:Hiron)

ガラシャの生誕地については異説もあり、福井県坂井市にある称念寺の門前で生まれたとも。『明智軍記』(光秀の死後100年以上経って、江戸時代に書かれたものなので、史実かどうかは疑わしい)には、光秀は美濃を追われた後、越前に入り、称念寺の門前にある屋敷に妻子を住まわせていたと書かれているのだ。ここは福井駅から北に12キロほどの距離で、クルマで30分ほど。

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ガラシャは1578年、15歳で細川忠興(望月歩)と結婚するが、その挙式は、細川家の居城である山城の勝竜寺城(しょうりゅうじじょう)で行われた。現在の京都府長岡京市にある。ガラシャが子ども時代を過ごした福井から、南西に150キロ以上離れている。

勝竜寺城跡(写真:服部由愛)

その7年前の71年、忠興の父・藤孝(眞島秀和)が織田信長(染谷将太)からこの城を与えられて城主となった。またこの城には、「本能寺の変」のあと「山﨑の戦い」で敗れた光秀が逃げ込み、最後の夜を過ごしている。京都駅から南西10キロぐらいのところにある。

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勝竜寺城でガラシャらは新婚時代の2年を過ごした後、80年、忠興が信長から丹後12万石を与えられて、父から独立した大名となり、丹後八幡山城(たんごはちまんやまじょう)に入った。勝竜寺城から北西に100キロ以上移動することになる。

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その後、新たに宮津城(みやづじょう)を海沿いに築き、そこに移る。現在の京都府宮津市、日本海の宮津湾を望める城で、松島や宮島とともに「日本三景」とされる天橋立(あまのはしだて)の近くだ。全長約3・6キロの砂洲に約5000本もの松が茂っており、その形が天に架かる橋のように見えることから「天橋立」と呼ばれる。

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宮津城の石垣跡の近くには現在、カトリック宮津教会(聖ヨハネ天主堂)があり、その東に隣接する大手川ふれあい広場にはガラシャの像が建立されている。1896年に建てられた聖堂は、長崎の大浦天主堂(1864年竣工)に次いで古い建物で、現役、日本最古の木造教会堂であり、京都府指定有形文化財。

カトリック宮津教会前のガラシャ像(写真:服部由愛)

ガラシャが洗礼を受けたのは大坂の細川邸で、この頃はまだキリシタンではなかったが、1587年暮れに洗礼を受けたあと、ガラシャはこんなことを考えていたという。

ガラシアは彼女の(領)国(丹後)に一つの立派な教会を建て、そこで(住民の)大改宗を企てる決心でいた。(フロイス『日本史』5巻、236ページ、中央公論社)

教会に行きたくても行くことができなかったガラシャのことを思うと、幼い子どもたちと過ごしたこの宮津の地に、このようにして教会が建てられたことは感慨深いものがある。

ガラシャは宮津城で幸せに暮らしていたが、1582年、父・光秀が主君である織田信長を討った「本能寺の変」が起こり、「逆臣の娘」として2年間、幽閉される。3歳になった長女の長、2歳の長男・忠隆と引き離されて過ごしたが、この間に次男の興秋が83年に生まれた。

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そこは、宮津城から30キロ足らず、若狭湾を囲んで北西にある丹後半島のほぼ中央で、山深いところだった。標高613メートルの味土野(みどの)と呼ばれる土地で、1936年、細川家がその周辺の土地を買い取って整備し、「細川忠興夫人隠棲地」と彫られた記念碑を屋敷跡に建立した。「陸の孤島」ともいうような険しい山奥で、人家はなく、冬はおよそ2メートルもの雪に埋もれるため、厳しい生活を余儀なくされたことが想像される。

味土野の「細川忠興夫人隠棲地」と刻まれた記念碑(写真:服部由愛)

1584年、天下人となった豊臣秀吉は、ガラシャを味土野から細川家に戻すことを許す。ちょうどその頃、大坂城が完成し、周囲に大名や直臣の屋敷を置いたのだが、細川家の屋敷も城の南、玉造につくられた。こうしてガラシャは、宮津城と細川邸で生活を送るようになる。その2年後、三男で跡取りとなる忠利が宮津城で生まれた。

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しかし、ガラシャが以後、「逆臣の娘」の汚名をそそいで自由になれたかというと、そうではなかった。これまで同様、厳しい監視下に置かれた軟禁に近い状態を強いられたのだ。この大坂の細川邸でガラシャはキリスト教と出会って洗礼を受け、そして1600年、壮烈な最期を遂げる。

カトリック玉造教会(写真:服部由愛)

いま細川邸の跡には、カトリック玉造教会(大阪カテドラル聖マリア大聖堂)がある。この地に最初に聖堂が建てられたのは1894年(明治27)年のこと。いま大聖堂の正面右側には細川ガラシャ像があり、聖堂の西北には、細川越中守の屋敷の台所にあった井戸、「越中井(えっちゅうい)」が残され、ガラシャの辞世の句「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」が刻まれた石碑がある。ガラシャが屋敷を抜け出して出かけた当時の大坂教会は、大坂城の西側にある大手門と大川の間、現在の北大江公園付近にあり、屋敷からは歩いて20分ほど、2キロ足らずの距離だった。(5に続く

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