助けてもらう目線で聖書を読む 【発達障害クリスチャンのつぶやき】

聖書にはいろいろな話が出てきます。特に有名なのが、新約聖書の福音書(ふくいんしょ)に出てくる、イエス・キリストが病気や障害を奇跡的に癒やした話です。これをどう読むか。多くの牧師や司祭がだいたい以下のように「説教」します。「最も小さくされた方々とともに生きましょう」「弱くされている方々とともに歩みましょう」と。これは一見、「主にならって」生きているように見えますが、私には違うように思えます。これは、暗黙のうちに自分は小さくも弱くもないというあり方です。自分を強い側に置いて聖書を読んでいます。これは「助ける目線」で聖書を読んでいると考えられます。それが悪いとは言いませんが、ここでは、「助けてもらう目線で聖書を読む」という読み方について書こうと思います。

盲人バルティマイというのが聖書に出てきます(マルコによる福音書10章46節以下)。彼は目の見えない物乞いです。イエス一行が通ったと聞くと叫びます。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください!」と。彼は多くの人々から叱られて黙らせられようとします。しかし、バルティマイはますます叫びました。これは、自分がまさに盲人の物乞いであると思って読むところではないのだろうか。この話は「イエスが主役」なのかそれとも「バルティマイが主役」なのか。前者で読む人が多い証拠に、ここの小見出し(聖書の本文ではない、発行元の日本聖書協会がつけているタイトル)には「盲人バルティマイを癒やす」と書いてあります。私なら「盲人バルティマイ、癒やされる」と書くでしょう。

同じような例ですが、規定の病(重い皮膚病、らい病)を患っている人がイエスのところに来て「お望みならば、私を清くすることがおできになります」と言います(同1章40節以下)。イエスは深く憐れんで「私は望む。清くなれ」と言うとその人はたちまち清くなるのですが、これも、規定の病を患っている人の目線から読んでいる説教はまず聞くことがありません。どうも肝心の聖書のメッセージが伝わっていない気がします。ここの小見出しも「規定の病を患っている人を清める」であって「規定の病を患っている人、清めてもらえる」ではありません。どうも皆さん、自分が規定の病(らい病)の患者になるという想定がないのではないか。

学校の教員であったころ、ボランティア活動と称して、いろいろな福祉をたずねて「お手伝い」のまね事をしました。お年寄りや障害者を「助ける」のです。「善いことをしている」かのようですが、そこには「自分も若くして死なない限りは必ず年寄りになる」という視点が欠落していました。誰でもいつでも障害者になり得ます。それは聖書の時代であれ現代であれそうです。私だってまさかわずか6年前、40歳のときに障害者であることが明らかになるとは思っていませんでした。上述の聖書の話をしても、多くの人にはうまく伝わりません。しかし、一部の人には伝わります。「盲人は叫んだ」と言っただけで「それはみんなでしょう!」と言ったご婦人もいます。「助けてもらう目線で聖書を読む」というのは、主流の読み方にはならないのかもしれません。しかし、そこに大切な聖書のメッセージが含まれています。それは、暗黙のうちに自分たちは助ける側だと思っている牧師や司祭から聞かれる説教にはない要素なのです。

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腹ぺこ

腹ぺこ

発達障害の当事者。偶然に偶然が重なってプロテスタント教会で洗礼を受ける。東京大学大学院博士課程単位取得退学。クラシック音楽オタク。好きな言葉は「見ないで信じる者は幸いである」。

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