皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。今日も日刊キリスト新聞クリスチャンプレスをご覧いただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、エゼキエル書の21章です。それではよろしくどうぞ。
◆エゼキエル書 21章29節
おまえのためにむなしい幻があり、おまえのためにまやかしの占いがなされても、その剣は汚れた悪者どもの首にあてられ、彼らの日、最後の刑罰の時が来る。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
このシーン、神様が怒ってます。ものすごく怒ってます。聖書全部を読み通しても、ベスト3に入るくらいの怒りっぷりです。イスラエルの王や民たちは何度も何度も神様を裏切り、逆らい、そして謝り、でもまた裏切り・・・ということを繰り返してきました。それで神様は「もう完全に怒った。もう謝っても何してもゆるさん!!君らの国は滅ぼす!誰が何と言おうと決めた!滅ぼす!」と彼らに告げました。
この箇所に書いてあることは、その怒りが恐ろしいほどに表現されています。現代風に要約するとこんな感じでしょうか。「君たちがどんな希望的観測を思い描こうが、どんな占いやらまじないやらでそれを防ごうとしようが、そんなのは何の意味もない。私の怒りは確実に君たちを滅ぼさずにはおかない。その日はもはや避けようがない。必ず来る。確実に」
一言で要約するなら「絶対にゆるさないし、逃しもしない」です。神様の怒りは恐ろしいです。
でも、実はこの神様の怒りは「昔の、イスラエルの民に向けられたもの」だけではありません。この怒りはそのまま「現代の、私たちに、私に、向けられたもの」でもあります。なぜなら現代の僕たちも、この時のイスラエルの民と同じように何度も神様を裏切り、逆らい、そして何度も謝ったにもかかわらず、また裏切る・・・ということを繰り返しているからです。ですから、「確実に滅びる」のはイスラエルの国だけではなく、僕たちも同じなんです。その証拠に誰だっていつか必ず死にます。確実にその日は来ます。どんな希望的観測も、占いも、まじないも、この事実の前には何の意味もありません。
アダムが罪を犯す前、人には死は与えられていませんでした。罪によって、人間はいつか確実に滅びる者となってしまったんです。人に死がある以上、それは神様から「君はいつか確実に滅ぼす」と言われているのと同じなんです。
・・・神様って恐ろしい。血も涙もないのか。そんなことはありません。これだけ恐ろしい怒りを受けながら、それでも今、人間が価値あるものとして神様から愛されているのは、イエス様が罪をすべて引き受けて十字架についてくださったからです。父なる神の怒りが激しく、その罰が厳しければ厳しいほど、そこから救い出してくださる子なるイエスの恵みは大きいんです。100円の借金を帳消しにしてもらうより、100万円の借金を帳消しにしてもらうほうが、感じる恩恵は大きいですよね。そして実際に神様が僕たちに帳消しにしてくださっている罪は、100万円はおろか、100億円でも100兆円でも返しきれるものではありません。
聖書にはこのように、神様の恐ろしい怒りが描かれているシーンも多いんですが、その怒りの表現はそのまま、それを帳消しにしてくださった神様の愛の深さの表現でもあるんです。こんな怒りのシーンこそ、今与えられている愛を浮き彫りにしてくれるんです。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。