【断片から見た世界】『告白』を読む 「絶望」が開くもの

「実存の本来的生起」の問題:アウグスティヌスの『告白』へ

私たちの探求は「存在の意味への問い」との関連において、「実存の本来的生起」の問題に突き当たりました。アウグスティヌスが残した『告白』という書物は、この問題に関して、この上なく貴重な示唆を与えてくれるものであると言えるのではないだろうか。

「わたしの神よ、あなたに向かって感謝をささげながら、わたしの上にそそがれたあわれみを告白させてください。わたしの骨にあなたの愛をそそいで、それに、『主よ、だれかあなたに比べるものがあろうか。あなたはわたしの鎖を解かれた。わたしはあなたに賛美のいけにえをささげよう』とわたしに語らせてください。わたしはここにどうしてあなたがわたしの鎖を解かれたかを語ろう。そうすれば、あなたを崇めるすべての人はみなそれを聞いて、『主は、天においても地においても大いに賞むべきである。主の御名は偉大で、驚嘆すべきである』というであろう……。」

彼を縛りつけていた鎖がいかにして解かれたか、その過程をたどり直すことによって、私たちは「実存の本来的生起」なる主題に関して何を見出だすことになるのだろうか。今回の記事では、「ミラノの見神」体験以降の彼の足どりを確認するところから議論を始めてみることにしたいと思います。

「目標は存在するが、道は存在しない」:アウグスティヌスの苦悩

上に引用した文章に続いて、アウグスティヌスは次のように言っています。

『告白』第八巻第一章:
「あなたの言葉は、もうすでにわたしの胸に深く突き刺されて、わたしは四方八方からあなたにとり囲まれていた。わたしはあなたの永遠の生命を、ただ『おぼろげに、鏡によってのように』見たにすぎなかったが、しかしそれについてはもうまったく確実であった。[…]わたしはもはや、それよりも確実な認識を得ようとはせず、ただあなたのうちにもっとしっかりとした認識を得ることを望むのみであった。しかしわたしのこの世の生活については、すべてが不確実であって、心を『古いパン種』からきよめねばならなかった。わたしは、救いにいたる道を示される救い主そのものを喜んだが、まだその狭い道そのものを行く気にはなれなかった……。」

当時の彼が置かれていた状況を、二点に分けて整理してみます。

「ミラノの見神」体験以降、アウグスティヌスはパウロの書簡を読むことを通して、キリスト教信仰の道に対する自らの確信を固めていました。すなわち、信仰というのは外から客観的な仕方で確証できるような性質のものであるというよりは、あくまでも「信じる」という実存的なコミットメントを通して実存的な仕方で選び取ってゆくものに他なりませんが、少なくともアウグスティヌス自身にとっては、「絶対他者であるところの神が存在し、私たちの一人一人を愛している」ということはもはや確実であると思われるようになっていました。アリストテレスやキケロ、プロティノスといった人々が残した哲学の書物を読むことを通して深められていった真理の探求は、パウロによって書かれた手紙の言葉に改めて出会い直すことを経て、「これこそが行くべき道である!」という方向を見出だすところにまで既に到達していたと言うこともできそうです。

しかしながら、アウグスティヌスは、その確信に従って決断し、「新しい人間」として生き始めることからは程遠い地点にいました。それは、『告白』において彼自身が証言しているように、彼には、女性に対する情欲の問題が決して消し去ることのできないオブセッションとして取り憑いていたからです。行うべき決断、選び取るべき選択肢は分かっているはずなのに、どうしてもその道を決然として進んでゆくことだけはできない。「目標は存在するが、道は存在しない」という実存の袋小路に行き当たってしまい、いかにすべきか分からないまま、無気力と絶望だけが徐々に深まってゆくというのが、回心の出来事を直前に控えた32歳のアウグスティヌスが置かれていた状況にほかならなかったといえます。2023年の現在において哲学することへと向かっている私たちにとって、彼のケースは「実存の本来的生起」の問題に関して何を教えてくれるのでしょうか。

アウグスティヌスの苦しみ:「絶望」の問題圏へ

論点:
「実存の本来的生起」なる出来事に到達するためには、「絶望」のモメントをくぐり抜けることが必要であるのか?

これから見てゆくように、当時のアウグスティヌスにとって問題であったのは、「自己自身になること」に他なりませんでした。「わたしは真にわたし自身の生を生きている」と言えるような実存のあり方に到達すること、それが、彼にとっては信仰を持つことに重ね合わされていたわけですが、すでに見たように、このことは彼にとって、ほとんど不可能なことであるように思われていました。決断し、跳躍するための意志の力はどうしてもアウグスティヌス自身の精神の内からは生まれ出てこなかったのであって、ここにこそ、彼が抱え込むことになった絶望の核心がありました。彼はこうして、その後の哲学の歴史において、千五百年以上にわたって問われ続けることになる「意志の自由」の問題を、自らの実存そのものを通して受苦し、そのことを通して、この問題に関して哲学の歴史への大きな寄与を果たすことになりますが、私たちがこれから追おうとしている「実存の本来的生起」なる主題にも、この問題は非常に深く関わっているといえます。

「自己」と「意志」をめぐる諸問題については、これから時間をかけて見てゆくことになりますが、今回の記事を締めくくるにあたって改めて確認しておきたいのは、アウグスティヌスにおいて、「真に自己自身であるような生のあり方」に到達するための探求は、絶望することの苦しみを通してでなければ行われえなかったという点に他なりません。

「もはや後戻りすることができない」という状況は人間を危機に陥らせるのと同時に、「跳躍する」という可能性をはじめてリアルなものとして浮かび上がらせます。「生きることの意味」そのものが分からないという絶望は、アウグスティヌスを、「根底から新たに生き始める」という可能性に向かって駆り立てずにはおきませんでした。「絶望」そのものは病でしかなく、決して薬にはなりえないとしても、探求する人間は、まさしくその絶望することを通して「生きることの意味と無意味」の問題に、根底的な仕方で向き合うことになる。「後ろを振り返っても何もない」という状況は、そうした状況がなければ決して進みえないような未曾有の実存の可能性を開かずにはおかないのではないか。この意味では、「生きることの根源的な意味」は絶望のただ中においてこそ見出されるという逆説が成り立っていると見ることも、あるいは可能なのではないだろうか。かくして、「絶望」のうちに含まれているこの実存論的な契機を十全な仕方で明るみに出すことが、哲学的省察にとっての不可欠の課題となってくるのではないかと思われるのである。私たちがこれから『告白』の読解を通して追ってゆくことになるのは、「自己」と「絶望」をめぐるこの錯綜に他なりません。

おわりに

「絶望とは、どこまでも弁証法的なものであって、それにかかったことがないことは最大の不幸であり、その治療を望まない場合には何よりも危険ではあるものの、それにかかることが真の神の恵みであると言えるような、そのような病なのである。」キルケゴールは1849年に出版された『死に至る病』において、このように書いていました。ここには、「実存の本来的生起」なる出来事が指し示す問題圏を踏査するにあたって、決して無視することのできない契機が含まれていると言えるのではないか。私たちとしては引き続き『告白』の言葉に耳を傾けつつ、この主題を追ってみることにします。

[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

 






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