主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、歴代誌第一の3章です。よろしくどうぞ。
歴代誌第一 3章5節
・・・ソロモン。この四人はアンミエルの娘、バテ・シュアによる子である。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
ダビデ王は子だくさんでした。エルサレムに入る前に生まれた子が男の子だけで6人。エルサレムに入った後で男の子が4人。他に女の子が9人生まれましたし、さらに他に側女の子もいたと書いてあります。ですからダビデには20人以上の子がいたということになります。
その中で、後にダビデの跡を継ぐソロモンは最後の男の子でした。そしてそのソロモンはバテ・シュアの子だと書いてあります。このバテ・シュアというのは他の箇所では「バテ・シェバ」と表記してあったりもしますし、この名前の方が有名ですが、ダビデが部下の妻に横恋慕して略奪してしまった女性です。しかもダビデはそのスキャンダルを隠すために彼女の夫をわざと戦争の前線に送り出して見殺しにして死なせるという大罪を犯しています。
そんな経緯で生まれた子は、往々にして「隠し子」として育てられたりしますが、ソロモンの場合はそれどころか堂々と王子として育ち、後継者になってしまいました。もちろんこれには上の息子たちが早く死んでしまったり、裏切ったりといった事情もあったのですが。
人は罪を隠そうとします。そして罪の結果も隠そうとします。それは人の目を恐れるからです。人から権力や名誉を奪うものは多くありますが、その中でも最たるものは人の目です。それは現代の政界や芸能界なんかをみていてもわかります。一つの悪事が露呈すると、人の目が変わり、あっという間に権力や名誉を失います。
ダビデは「略奪愛」の事件を、人の目からは隠しました。しかし、神様の前では隠せるものではありません。ダビデの悪事ははっきりと聖書に記され、3000年も後の僕たちにも語り継がれてしまっています。しかしダビデは悪事を人の目には隠せても、神の目には隠せないことをよく知っていました。それで彼は神の前で悔い、謝罪し、懺悔しました。
人の目は、悪事を赦しません。もちろん神の目も悪事を赦しません。しかし神の目は悔い改める者に対しては「私はあなたの罪をもう思い出さないよ」という赦しの性質をもっています。人の目はどうでしょうか。悔い改めている人に対してもいつまでも「あいつはあのとき、あんなことをしたやつだ」と指差しはしないでしょうか。人は実は赦すことが嫌いなんです。嫌いというより、赦すことに限界があるんです。赦すのには多大な精神的な負担がかかりますし、故に赦そうとしても赦せないということも起こります。でもだからこそ、悔い改めている相手を赦すということに価値があるんです。それが簡単ならそれほどの価値もありません。難しいし苦痛を伴うからこそ、赦しには価値があるんです。
そして僕たちはみんな、神様に赦されています。それは神様が、赦しに伴う苦痛をすべて受け止めてくれたからです。つまり十字架です。十字架の上で、イエス・キリストが、赦しに伴う苦痛や困難をすべて受け止めてくれた故に、僕たちは赦されているんです。僕たちも本当ならダビデのように、3000年経ってもその罪を語り継がれてしまっても文句は言えません。僕たちは誰が、自分の罪はダビデよりは軽いなんて言えるでしょう。しかし、その十字架によって、神様は「もう君の罪は思い出さないし、記録することもしないよ」と赦してくださったんです。
だから僕たちは全員が前科者でありながら、もはや前科者ではないんです。
それではまた次回。
主にありて。
MAROでした。
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