主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、ヨシュア記の18章です。よろしくどうぞ。
ヨシュア記 2章11〜13節
・・・あなたがたの神、主は、上は天において、下は地において、神であられるからです。・・・私はあなたがたに誠意を尽くしたのですから、あなたがたもまた・・・私たちのいのちを死から救い出す、と誓ってください。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
モーセの後継者としてイスラエルのリーダーとなったヨシュアは二人の部下に「ちょっと敵地に潜入して様子を見てきて」と命令しました。それは非常に危険な任務でしたが、敵地の住民であったラハブという遊女が彼らを上手にかくまってくれたので彼らは任務を果たすことができました。そのとき、ラハブは二人に言いました。「あなたたちの神って、本物の神様なのよね。私もそれを信じてあなたたちを助けたのよ。で、助けてあげたんだから、あなたたちが私たちの国に勝ったときは私のことも私の家族のこともちゃんと助けてよね!!約束してちょうだいな!」このときラハブは二人に訴えると同時に、その後ろにいる主なる神に訴えたとも言えます。つまりこの訴えはラハブから神様への、庇護を求める祈りだったんです。
こうしてラハブは後にヨシュア軍が攻め込んで勝利を得たとき、約束通りに命を助けられました。そればかりか、後にイスラエル12部族の1つユダ族の男性と結婚し、ボアズという子を産みました。このボアズは有名なダビデ王の曽祖父にあたる人ですし、さらにはイエス・キリストの祖先にもあたる人です。つまりラハブはダビデのひいひいおばあちゃんになり、イエス・キリストの遠いおばあちゃんになったんです。
聖書には明らかにラハブについて「遊女」と書いてあります。遊女というのは社会的身分が低いどころか、人々から蔑まれるような職業でした。しかし神様はそんな女性を用いてイスラエル民族に出エジプトの悲願を達成させ、そしてイエス・キリストが受肉する系譜に加えたんです。神様にとっては用いる人間の職業が何であるか、社会的身分がどうであるかなんて関係ないことなんです。
しかし一方でラハブは異民族であったにもかかわらず、主なる神を神として自分の心に受け入れています。つまり、現代クリスチャン的に言うならばいわゆる信仰告白をしたんです。信仰告白をした上で「私のいのちを保証して欲しい」と願ったんです。この点が、神様が、あるいは聖書が彼女を一種のヒロインとして認めた理由かと思います。
まったく異なる視点からみれば、彼女は「保身のために国を裏切って滅亡させた売春婦の売国奴」と罵られさえする存在かもしれません。しかし聖書はそんな彼女をイエス・キリストへと向かう救いの系譜に加えたんです。イエスが生きた時代のユダヤ人にとっては、「遊女というのは罪にまみれて救いようのない存在」でした。そんな「救いようのない存在」から、救世主が生まれたという点に聖書の強いメッセージがあります。それは「罪のないユダヤ人」が救われるという思想から、「罪に塗れた異邦人でも救われる」という思想への大転換です。
僕たちもまた、主なる神を神として自分の心に受け入れたとき、ラハブと同じように神様の庇護下に入ります。そしてラハブと同じように「信じたんだから守ってくださいよね!」と神様に迫ることもゆるされています。
そんな神頼みで救われるなら苦労はないよ、なんて笑う方もいるかもしれません。でも恐らくラハブほど真摯に「神頼み」をする人は現代にはあまりいないでしょう。いわゆる「神頼み」を一般的な日本人が神社やお寺でするとき、その「神」を心から心に受け入れているでしょうか。あなたこそ私の神ですから全幅の信頼を置きます、と宣言するでしょうか。教会でさえ、それほどまでに真摯に宣言をする人はそれほど多くないかもしれません。僕自身だって、ラハブほど真摯に神様の守りを求めて訴えたことがあるかと言えば、正直わかりません。祈る対象をとことんまで自分の心に受け入れてシンプルかつ全幅の信頼を置くこと、これが祈りの大前提なのだと思います。この大前提に立って祈るとき、神様は僕たちの状況や身分なんて関係なしに、「よし任せろ」と守りを与えてくださるんです。
主にありて。
MAROでした。
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