示された地へ行く 小倉仁史 【地方からの挑戦~コレカラの信徒への手紙】

「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい」

神学校最終学年の4月、派遣先教会を導く上での配慮事項を学長が聞き取る面談が行われます。私は「幼児洗礼を認める教会であれば、あとは主にお委ねします」と言い、学長室を後にしました。

そして、月日がたち学長に呼び出されました。「君を盛岡の教会に推薦したいと考えている」と言われた時、心の中で叫んだのが「じぇじぇじぇ!」でした。岩手の盛岡……。聞いて頭に浮かんだのは盛岡冷麺と連ドラ『あまちゃん』。親戚も友人もいなければ、行ったことすらありません。その当時の知識では、盛岡が岩手県のどの辺りにあるのかも分かりませんでした。何より本州で最も寒い都市ですから、夏生まれで寒がりの私には不向きの土地です。しかし卒業時の派遣は絶対に断らない、自分の意志は介入しないと初めから決めていました。

学生寮を引き払い、寮の後輩が運転するトラックで盛岡へ移ったのは3月28日でした。東京ではすでに桜が満開なのに、ここ盛岡では夜には気温0度。引っ越したばかりの時にはストーブもなかったので、部屋の片隅でブルブル震え、住み慣れた関東から遠くの地に来たことをしみじみ感じました。

盛岡は新幹線の駅もあり鉄道の便がいい方ではあるのですが、やはり日常生活のために車は必須でした。しかも、岩手県は北海道の次に広い県。ただの県内の移動であってもいつも長距離ですし、冬場は道路が凍結するので、それなりにしっかりとした車が必要でした。お金を借りてでも車を買おうか、そんなことを考えていると、関東の教会の先生より「古いがちゃんとした車があまり使われずにある」と聞き、その車をいただいて盛岡での生活や教会の奉仕をすることができました。必要は神が満たす、そのようなことを経験しました。

さて、ここでどのような伝道が考えられるのか? 幸いにも、教会の目の前には岩手大学という大きな国立大学があり、若い人たちも身近にいる。教会には付属のこども園があり、子どもや保護者たちとも接点を持てる。地方だから伝道はできないと悩む要素はなさそうです。じっくり時間をかけて福音の種をこの地にまいていきたい、そのような熱い希望を膨らませていました。

盛岡駅のすぐ近くに「開運橋」という、白い立派な鉄橋があります。新幹線で盛岡に降り立ったらその橋を渡って盛岡市街地に行くことになるのですが、その橋には別名「二度泣き橋」という名前が付けられています。転勤で盛岡に飛ばされた時、「私も遠くまで来ることになってしまった」と泣きながら渡り、しかし住んでみると盛岡の人の温かさと優しさに触れ、去る時には「ここを離れたくない」と泣きながら渡る、そのような由来があるそうです。

泣きはしなかったものの、知っている人が誰もいない土地、気候や風習が違う土地に来ることになり、私も心細かったことを思い出します。そして、この「二度泣き橋」の二度目を渡るその時が人間の想像をはるかに超えてすぐにやって来ることになり、私はまたしても心でこう叫ぶのです。「じぇじぇじぇ!」

おぐら・ひとし 1977年東京都生まれ。サラリーマン時代は仕事の後にMBAを学びに行くほど経営や経済に夢中だったのに、ある時聖書に出会い35歳で受洗。約20年のサラリーマン生活を捨てて東京神学大学へ編入学。同大学院修了後、日本基督教団舘坂橋教会、2023年度より日本基督教団本牧めぐみ教会に赴任。好きなことは子どもに関わることとテニス。

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