富も名誉も名声もなしに幸せになる【聖書からよもやま話461】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、イザヤ書の57章です。よろしくどうぞ。

 

イザヤ書 57章1〜2節

義人は滅びるが、心に留める者はいない。
誠実な人は取り去られるが、気づく者はいない。
義人はわざわいを前にして取り去られる。
その人は平安に入り、
まっすぐに歩む人は、
自分の寝床で休むことができる。

(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

義人、つまり正しい人、と言えば一般的には、立派でみんなに尊敬されてたくさんの名誉を与えられて・・・と、そんなイメージを抱くことが多いかと思います。しかしここには「滅びても心に留める人はいないし、取り去られても気づく人はない」と、一見救いがないようなことが記されています。そして病気や老いや災害によっていずれ亡くなってしまうと。

そんなことなら「正しい人」になんかなりたくない!と思う方もいらっしゃるかもしれません。しかしその後には、そんな人こそが平安に入り、自分の寝床で休むことができる、つまり自分の安定した居場所で安らかに過ごすことができると書いてあります。僕たちはつい名声や名誉を求めます。しかしそこには本当の居場所や安寧はないと、聖書はそう言っています。名声も名誉も求めずに生きることにこそ「正しさ」があり、反対に言えば「正しさ」には名声も名誉も必要ないということです。

内村鑑三が著した『後世への最大遺物』という本に、似たようなことが詳しく書いてあります。人間は業績や財産や知識を構成に残すことができる、これらは後世への大きな遺物である、しかし人間が後世へ残せる最大の遺物はそれらではなく、一人一人の正しい生き様なのである、とそのような内容です。

名声のために、名誉のために、富のために、平安を失っては何の意味があるでしょう。平安とは即ち幸せです。僕たちはつい、名声があれば、名誉があれば、富があれば、幸せになれると思いがちですし、それらを手にすればきっと幸せだろうと夢見ます。僕だって思います。今よりもお金があればもう少し快適な生活が送れるし、将来の不安に苛まれることもなくなるんじゃないかと。そうすれば今よりも幸せなんじゃないかと。しかし聖書は「名声も、名誉も、富も君を幸せにしてくれやしないよ」反対に言えば「名声も名誉も富もなしに、君は幸せになることができるんだよ」と教えてくれています。

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UnsplashMichael Sumが撮影した写真

「死んだら新聞に載るような立派な人物になりたい」なんて思うこともありますが、本当に立派な人物である証は、死んで新聞に載るようなことではないんです。多くの人から「立派だった」と言われることではないんです。それよりも、神様から「立派だった」と言われることです。だって神様は僕たちを生まれてから死ぬまでずっと見ていてくださいますけれど、人間が人間を見るのは誰にとってもその人生のごく一部にすぎません。家族やパートナーや親友なら見える部分はずいぶん増えるかもしれませんが、それでも神様に比べればごくわずかです。

人に見えるところで立派なことをしていても、人に見えないところで良くないことをしていれば神様はちゃんとそれを見ていますし、人に見える立派なことをしていなくても、人に見えないところで良いことをしていれば、神様はちゃんと見ています。

人間はつい、僕も含めて、他の人間の評価を求めて生きてしまいます。他人の評価こそが自分の価値であると錯覚したりしてしまいます。しかしそれは文字通り錯覚なんです。人間の価値は人間の評価で決まるものではありません。自分の評価で決まるものでもありません。神様の評価で決まるものです。クリスチャンでない方だって「人が見ていなくてもお天道様が見てる」なんて言い方をしたりします。神様を信じていない人だって、そうやって「絶対的な存在の評価」を心のどこかで想定し、期待しているんです。

自分の価値は自分で決めると言えば今の時代には聞こえがいいかもしれません。でもそれは「自分に自信のある、元気な人」の言い分です。自分で自分に良い評価ができる人の言い分です。でも世の中はそんな人ばかりではありません。自分に低い評価しか下せない人だってたくさんいるんです。「自己肯定感を高く」なんて世ではよく言われますけれど、それが声高に言われるということは自己肯定感を高く持てない人の方が世の中に多い証拠とも言えます。

自分で自分に自信の持てない方、自分で自分に良い評価をできない方。無理してそれをしようとしなくてもいいんです。自分で自分の良さを認識できなくてもいいんです。それは神様がちゃんと知っていてくれますから。そしてそんな人をこそ、平安に導くと宣言してくださっているんですから。

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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