自分で思うより自分は美しくない【聖書からよもやま話282】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は  旧約聖書、エゼキエル書の32章です。よろしくどうぞ。

エゼキエル書 32章22節

あなたは自分を国々の若獅子だと思っている。
しかし、あなたは大海の巨獣のようだ。
川の中で暴れ回り
足で水をかき混ぜ、
その豊かな流れを濁らせる。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

これはエジプトのファラオや、世の王たちに向けられたことばですが、現代の僕たちにもまた投げかけられていることばかと思います。人間というものは特に力を持ったときに、自分を過大評価してしまうものです。自分の力だけでなく、その人格や立ち振る舞いについても過大評価してしまったりします。

しかし神様は言います。お前はそんなに美しくも強くもないと。むしろ醜く、しかも醜いばかりでなく周りの空気をも濁しているものだと。

僕もそれなりの年齢になりましたから、ビジネスでもプライベートでも、それなりに上手にコミュニケーションができるようになりました・・・と、言いたいところですが、まったくそんなことはありません。だいたい「うん、僕もそれなりにそつなくコミュニケーションをこなせるようになってきたもんだ」なんて思った頃に、何か失敗をやらかして周りの人から叱られたり、いつの間にやら悪評が立ってしまっていたりします。そんなとき、僕は自分のコミュニケーション能力について明らかに慢心してしまっているのです。若獅子のようにスマートに振る舞っているつもりで、実は巨獣のように周りの水を濁してしまっているんです。

「できるようになったな」と思った時こそ、真に「できない」ことが現れて、それによって打ちのめされる。そんなことが人生には何回もあるのではないでしょうか。もしかしたら年に何回もあるのではないでしょうか。僕にはあります。その度に「僕は若獅子ではなく巨獣なのだ」と思い知らされるのに、またすぐにそれを忘れて「僕は若獅子だ!」と振る舞って、また失敗をやらかしてしまう・・・そんな繰り返しです。

たぶん、若獅子よりも僕たちは悔い改めた巨獣、心優しい巨獣を目指す方がいいのかもしれないなと思います。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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