「神様」はほとんどの場合、人間が作り上げたものです

どんな意見もそれだけ聴けば正しく思える【聖書からよもやま話277】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、エレミヤ書の11章です。よろしくどうぞ。

エレミヤ書 11章12節

ユダの町々とエルサレムの住民は、自分たちが犠牲を供えている神々のもとに行って 叫ぶだろうが、これらは、彼らのわざわいの時に、決して彼らを救わない。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

間違った対象に頼っても何の力もないってことですよね。ユダとエルサレムの人たちは本当の神様ではなく、自分たちで作り上げた偶像の神々に頼るようになっていました。それで神様は「そんなものに頼っても何の力もないし、私も彼らを救わない」と怒ってしまいました。

「神というのは人間が作ったものである」とはよく言われることですが、これは多くのケースでは本当です。唯一の本当の神様以外は、みんな人間が作ったものです。そして人間には神様を作りたがる性質があります。モーセの時代の「金の子牛」をはじめ、あれやこれやと崇拝対象を作り上げてしまいます。それは必ずしも「神」であるとも限りません。政治家とかインフルエンサーとかアイドルとかヒーローとか、人間でしかない者を自らの人生の支柱として祭り上げてしまうこともありますし、お金を人生の中心として讃えてしまうこともあります。仕事や趣味に人生を捧げてしまうこともあります。広い意味で言えばそれらも「神をつくりあげる」ということで、偶像礼拝にあたります。神様は聖書を通してこれらの「人間の作り上げた神」はいざという時に何の助けにもならないと教えています。

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頼るべき相手を間違っては、うまくいくものもいきません。人生の支柱はあくまで本当の神様だけです。人間の作り上げたものと、神様のつくったものの区別をしっかりとつけなければいけないのだと思います。本当の神様はずっと変わることがありませんが、人の作った「神々」は手を変え品を変え、常に時代に合わせた魅力で僕たちを誘惑します。しかしその「変わる」ということ自体が最も明らかな区別ポイントかもしれません。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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