今も昔も変わらない、情と法の狭間で揺れる法律職の葛藤。【聖書からよもやま話263】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、歴代誌第二の19章です。よろしくどうぞ。

 

歴代誌第二 19章6節

彼はさばき人たちにこう言った。「あなたがたは自分のすることに注意しなさい。あなたがたがさばくのは、人のためではなく、主のためだからだ。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

ヨシャパテ王が自分の国に、現在でいう裁判所をつくり裁判官を任命しました。そのときに王が、その任命された裁判官たちに言った言葉が聖書に記されています。曰く「さばくのは人のためではなく、主のためである」。

僕は裁判官でもありませんし、司法試験に受かったわけでもありませんが、一応、行政書士という法律職のはしくれです。法律職の心得の中で大切なのは「情ではなく法で考える」ということです。特に裁判官ならなおさらのことかと思います。

時として、感情による善悪判断と法による善悪判断は異なります。たとえば今話題のカルト問題で言っても、カルト教団が政治家や政党に献金をすることも、政治家や政党がカルト教団から献金を受け取ることも、感情的・情緒的には「けしからん!」と僕も思いますが、法的に判断すればどちらもまったく違法行為ではありませんから、責められないということになります。法律職に就く人は、私人としてはともかく職務としては、感情による善悪ではなく、法による善悪で物事をみなければなりません。
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ヨシャパテ王もこれと同じようなことを言っているのかと思います。「法」が「主」に代わっていますが、「自分の感情的な価値判断ではなく、神の義に基づいた価値判断をしなさい」というのは、「感情的な判断ではなく、法的な判断をしなさい」というのとベクトル的には同じです。つまり聖書に記されたヨシャパテ王の言葉は現代にも通じる「法の精神」の基本だともいえるんです。

当時のさばき人たちにもやっぱり「自分としてはこう思うし、こうしてあげたい。でも聖書に照らし合わせればそれはできない」という葛藤はあったんだと思います。それは現代の法律職の人も同じです。「自分としてはこう思うし、こうしてあげたいけど、法に照らし合わせればそれはできない」という葛藤、それは多くの法律職の人が持っていますし、持っていなければならないものなのだと思います。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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