カルト教団には「何も足さない。何も引かない」ができません。【聖書からよもやま話258】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は新約聖書、ヨハネの黙示録の22章です。よろしくどうぞ。

ヨハネの黙示録 22章18〜19節

もし、だれかがこれにつけ加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もしだれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

ヨハネの黙示録22章は新旧合わせて1189章もある聖書の最後の章です。そしてその最後の章のいよいよ最後に書いてあることは、「この書に何も付け加えてはいけないし、何も取り除いてはいけない」ということです。余計なことを付け加えれば災いが与えられるし、都合の悪いことを取り除けば自分の受ける恵みが取り除かれると、そう書いてあります。つまり「何も足さない。何も引かない」が大切だということです。

地図はそこに過不足ない情報が記してあってこそ、人を目的地に導くことができます。大事な目印が消されてあったり、反対に余計な目印が加えてあったりすれば、それはかえって人を道に迷わせることになりますし、間違った目的地に導いてしまうことにもなります。聖書はいわば「人生の地図」ですから、同じことがいえるんです。

聖書に何かを付け加えたり、何かを取り除いたりということ、これは多くのカルト教団が行うことです。彼らはほぼ必ずと言って良いほど、聖書に自分たちに都合のいい「事実」を付け加え、都合の悪い事実を取り除いて信徒に教えます。たとえば旧統一協会(現在では「家庭連合」)では「原理講論」と呼ばれる書物が聖書に加えて大切なものとされています。そこには自分たちの教義に都合のいい「事実」が「聖書の正しい解釈」としてたくさん付け加えられています。モルモン教では「モルモン書」がやはり付け加えられていますし、ものみの塔(いわゆる「エホバの証人」)では「新世界訳聖書」として、もはや聖書自体を自分たちの教義に都合の良いように書き換えてしまっています。

「私たちはキリスト教です」と名乗っていても、聖書以外の書物を聖書と同等、あるいはそれ以上に重視するような団体は、ほぼ間違いなくカルトですし、少なくとも異端であることは間違いありません。また、「聖書の解説書」や「解釈書」ばかりを読ませて、聖書そのものに触れさせないような教団もそうです。「聖書を正しく理解するにはこの書物が不可欠なんです」なんて言う教団もそうです。そんな教団や「教会」にもし出会ってしまったら、迷わずに逃げてください。「良い人たちだからもう少し話を聞いてみてもいいか」というのが落とし穴になりますから、できるだけ早く逃げてください。

カルト教団は「何も足さない。何も引かない」で聖書を解釈したら、自分たちの教義やアイデンティティを保つことができません。ですから彼らは必ず何かを足しますし、何かを引きます。これが彼らを見分ける一つの明らかな基準です。

しかしこのことは、圧倒的な程度の差があるとはいえ、実は「まっとうな」教会でも起こり得ることですし、「まっとうな」クリスチャンにも起こり得ることです。聖書には信じがたいことや、信じたくないこともたくさん書いてあります。耳に痛いこともたくさん書いてあります。そんな聖句に触れた時、人は、クリスチャンであっても耳をふさぎたくなってしまいます。聖書に、自分の望みと違うことが書いてあった時、「読まなかったことにしよう」とそれを無視してしまいたくもなります。個人的な価値観のみならず、聖書が「現代社会の価値観にそぐわない」と感じられることだって起こります。そんな時、人はつい聖書のことばを「取り除いて」解釈してしまったりするんです。ですから今日引用した聖句は、カルト教団だけでなく、「まっとうな」教会やクリスチャンをも戒めるものでもあるんです。そしてその「耳をふさぐ」をずーっとやってしまっていると、もともと「まっとうな」教会だったはずのものが、いつの間にやら異端やカルトに変わってしまいます。ですから「まっとうな」教会やクリスチャンこそこの聖句を胸に刻んで、「何も足さない。何も引かない」を守って歩まなくてはいけません。「まっとうな」はずの教会が聖書に何かを足し始めたり、何かを引き始めたりしたら、それは危険な兆候だということです。

聖書の最後の最後に「付け加えたり取り除いたりするの禁止」と、わざわざ書いてあるということは、神様は人間がつい「付け加えたり取り除いたり」したくなってしまう存在だということをよく知っているということです。たとえば公園に「ポイ捨て禁止」という立て札があるのは、そこでポイ捨てをしてしまう人が実際にいるか、それが想定されているからです。誰もポイ捨てをする人がいないなら、わざわざ「ポイ捨て禁止」なんて立て札を立てる必要はないんですから。神様は「君たちがそうしたくなる気持ちは分かっているよ。だからこそ、ここでしっかりダメだと言っておくからね」と語りかけてくださっているんです。

「何も足さない。何も引かない」ここに聖書の真髄があるんです。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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