主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
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聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、レビ記の21章です。
レビ記 21章1〜2節
親族のうちの死人によって自分の身を汚してはならない。ただし近親の者、すなわち、母や父、息子や娘、兄弟の場合は例外である。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
これはイスラエル人の中でも神様に仕える祭司たちに命じられたことばです。祭司たちは誰かが亡くなっても「身を汚すこと」=「喪に服する」ことが許されていませんでした。友人が亡くなったから、親戚が亡くなったからと言って喪に服してはいけなかったんです。しかし、親兄弟の場合は話は別でした。
厳しいなぁ、なんて思いますけれど、よく考えてみれば現代社会では祭司でなく一般人でも同じくらい厳しいことを言われていますよね。だって会社でいわゆる忌引きで休むことができるのは親兄弟が亡くなったときくらいのもので、お祖父さんお祖母さんの場合だと、もう休めない会社もあったりします。叔父さん叔母さんならなおさらですし、まして「友達が亡くなったので忌引きで休みます」なんて言えません。法的に結婚しているパートナーが亡くなれば休めますが、事実婚だったりまだ恋人同士であったりすれば休めません。こう考えると、僕たち現代人は一般人であっても、この意味では古代イスラエルの祭司と同じくらい厳しい条件で働いているのだと言えます。
しかし、もっと厳しい条件を命じられた人たちもいました。それが祭司のもっと上の大祭司たちです。彼らは親兄弟が亡くなったとしても喪に服すことを許されませんでした。神様、なにもそこまで厳しくしなくても・・・なんて思ってしまいます。
しかし、これまた現代社会でもそんな条件を突きつけられて働いている人もいます。「親の死に目に会えない覚悟もしておけ」なんて言われる職業は世にいくつもあります。たとえば総理大臣がどこかの国の大統領と首脳会談をする、なんて時に「親が亡くなったのでキャンセルします」なんてわけにはいきません。大ステージに立つミュージシャンも、たとえば「親が亡くなったので東京ドームをキャンセルします」なんてわけにはいきません。サラリーマンだって大きな商談を前にしたら、そんなことだってあり得ますし、他にもいくらだってそんな例はあり得ます。
古代イスラエルの大祭司もまた、そのくらいの覚悟を持って務めなくてはいけない仕事だったのかと思います。自分のことはたとえ親が死んでも後回しで、とことんまで神様に仕える覚悟、「親の死に目に会えない覚悟」をもって、その務めに臨まなくてはいけなかったんですね。
ところで、安倍元首相の「国葬」の賛否が話題になっています。確かに外交という意味では「弔問外交」というのもありますから有効な機会であるのかと思います。ですからそれをやること自体には特に反対はしませんが、しかしその日を休日にしたり、国民みんなに黙祷やら弔意やらを要求したりするのはやめておいた方がよろしいかと思います。だって世の中には自分の親兄弟が亡くなってさえ、忌引きの休みをとって満足に弔意を示せない人だっているんです。それなのに、たとえ歴代最長の任期を務めた総理大臣だからと言っても、親戚でも友達でもなんでもない人に対して「仕事を止めて弔意を示せ」なんて言われても納得いかない方が多いのではないかと思います。
それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。
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